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九章 憎悪の矛先‐Sin‐(9)

 そんな彼に、ターヤは何も言えそうになかった。ただ、胸の前で強く両手を握り締める事しか、今の彼女にはできない。
 それはアクセルも同じ事だ。実際に手を下した彼が、一番やるせない顔になっていた。
 二人の様子に益々腹立たしくなったらしく、セアドは立ち上がると、苛立ちを彼ら三人にぶつけるようにして声の限りに叫んだ。
「どうして答えねぇ、何も言わねぇんだよ! 後悔するくらいなら、どうしてアストライオスを――」
「仕方なかったんだ!」
 辺りが静かになる。
 爆音の如き大声でセアドの激情を遮ったアクセルは、今にも啼き出してしまいそうな、実に情けない表情をしていた。
 一瞬だけ、誰もが、セアドですらもが目を見開いて言葉を失う。
「仕方なかったんだよ、セアド。あいつは、アストライオスは……あの時、既に闇魔に侵食されてたんだ。もう、俺の能力でも助けられそうになかった」
「嘘をつくな! あのアストライオスが――《守護龍》が、たかが闇魔如きに侵食される筈がねぇ!」
「なら!」
 先程までの罪悪感を湛えた様子からは一転し、アクセルは強固な意志を携えた瞳でセアドを見据える。
「どうして、ここにも闇魔が居るんだよ」
 その瞳は、次いで最奥の湖を静かに睨み付けていた。
「え――」
 唐突なアクセルの言葉に、何を言ってるの、とは突っ込めなかった。驚きの声を上げるまでに、ターヤもまた気付いてしまったから。
 神聖な空気で満ちていた筈の湖面が、刹那、邪気や魔気などと言った瘴気に近い靄を立て始めた事に。そしてその中央に、黒い靄のような存在が姿を現した事に。
「なっ……!」
「何よ、これ――!」
『驚愕、闇魔の邪気』
 アクセルの声で他の仲間達やセアド、更にはズメイの兄弟までもが気付かされたらしく、皆が皆、それぞれの度合いで顔を驚きに染め上げられていく。
 その中でただ一人、アクセルだけが神妙な面持ちでそこに立っていた。
「その闇魔如きが、どうして『聖域』である筈のアグハの林に入れるんだよ」
「それは……」
 セアドは答えられず、二頭の龍も沈黙を保っていた。
 だが、すぐにアクセルの表情は降下する。
「おまえらの長を殺した事は謝る。仇を取りたいんだったら、勝手に取れば良い」
「アクセル!」
 投げやりな声に対してエマが叱声を上げるが、彼は表情を変えなかった。その代わりか、再び面を持ち上げると、セアドと双子龍を見る。
「けど、今すべきことはそっちじゃないだろ。俺を殺す以前に、この縄張りの主とその契約者なら、あの闇魔を祓ってみせろよ」
 アクセルの言葉にセアドが唇を噛み締める。相棒の同胞を殺された事に対する激情ばかりが先行し、周囲の状況に全く気を払えなかった為に、このありさまだ。
 それにしても、あの《龍殺しの英雄》は何者なのだろうか、と内心でセアドは思考を働かせる。ただの《旅人》にしては闇魔について詳しすぎるどころか、ましてやアグハの林の主たるカレルとテレルさえも気付けなかった闇魔の気配を逸早く察知していた。

「――!」
 その時、セアドの脳裏に閃くものがあった。まだ兄弟と契約したての頃、初めてアストライオスと出会った時の事だ。
「まさか、テメェは……!」
 驚愕のあまりに途中で声は痞えたが、言葉の余韻だけで青年は感じ取れたらしい。
「多分、おまえの予想通りだろうな」
 その完全なる肯定に、セアドは救われた気がした。ただ、次の一歩が踏み出せない。相手が自分達とも深い関係にある相手を殺した事に変わりはないのだから。だからこそ、頼めなかった。
(セアド、ここはプライドをかなぐり捨ててでも頼むべきでは?)
 唐突なテレルからの声無き意思疎通には首を振る。
(今更無理だろ。つーか、キミら自身はそれで良いのかよ?)
(否定、可能性あり。続けて肯定、最優先事項を変更)
(カレル、キミまで……)
 兄弟からの集中攻撃を受けてセアドは眉を顰めた。今にも大きく溜め息を吐きそうな表情である。
(キミら、掌返すの早すぎんだよ)
 はぁ、と呆れたセアドが結局息を零した時だった。
「俺は、アストライオスを殺した」
「何を――」
 突如としてどこか躊躇いがちに話し出したアクセルにセアドは眉を潜めるが、彼は続ける。
「その事実は変わんねぇし、その咎を俺は負うつもりだ。だから、あの闇魔を消せたら、俺達を首都まで連れていってほしい」
 先程までの不安定な様子とは異なり、随分しっかりとした声だった。
 意外だ、と思う。そこではなく、言葉の内容自体を。
「赦してくれ、とまでは言わねぇんだな」
「そんな事、言えるか」
 視線を背けたアクセルを見てセアドはしばらく黙っていたが、意を決したように頷いた。
「解った。ただし、条件付きだ。そこのバンダナ着けた坊主の協力が必要になるが、テメェの記憶を覗かせろ。本当にアストライオスが闇魔に侵されていたのか、知りてぇんだ」
「解った」
 意義は無いとでも言うかのようにアクセルは少しだけ逡巡してから頷いた。それからスラヴィに視線を寄越す。
「スラヴィも、それで良いか?」
「『異存無し』――とある女性の言葉」
 少年が頷くと同時、青年は背負った鞘から大剣〈龍殺し〉を抜刀し、性能を確かめるように重みを確認したり何度か素振りをしてから、遂には膝を付いて大剣を構える。その宣誓らしき姿は、アウスグウェルター採掘所で見た時と寸分の狂いも無かった。
 それは彼にとっての儀式なのか、それとも誓いなのか。ただ集中され研ぎ澄まされていく何かに、誰も声をかけようとはしなかった。
「……うし、行くか」
 多大な時間をかけてからアクセルは立ち上がると、湖の方へと向けて歩き出す。
 彼の後ろ姿を眺めながら、ターヤは困り果てていた。アクセルもスラヴィも贖罪の為に成すべきことを決めたというのに、自分だけがただ棒立ちしているだけだという事実を歯痒く感じたからだ。
 けれども彼女は闇魔に対抗する能力など持ち合わせてはおらず、今アクセルに協力しようとしても、寧ろ足手纏いになって彼の負担を増やすだけでしかない。
(どうして)
 単純に悔しかった。
(どうして、わたしには何の能力も無いの? どうして、戦う為の能力が無いの? ……どうして、肝心な時に何の役にも立たないの?)
 職業が《治癒術師》だからという事もあるのだろうが、ターヤはここぞという時には何もできていないどころか皆の足手纏いになっている気しかしなかった。どうにも彼女は、こういう場面や戦闘においては殊更非力だった。

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