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九章 憎悪の矛先‐Sin‐(10)

 その間にも、アクセルは湖の前に辿り着いていた。
 それに呼応してか、水面に浮かんだ黒い靄が激しく蠢き始める。例えるならば、彼を拒絶するかのように。
「よぉ、いきなり悪ぃけど、ここから去ってくんねぇか?」
「おい、何言ってんだ!」
 闇魔に話しかけた事に驚愕を表してセアドが叫んだ。無論、後方で見守っていた人々も驚きを隠せてはいない。
 しかし、振り返ったアクセルはあくまで朗らかな顔をしていた。
「話せば解るかもしれねぇだろ?」
「馬鹿野郎! 闇魔に話が通じる訳ねぇだろ!」
 瞬間アクセルの眉根が大きく寄せられ、視線は湖面の方へと戻される。
 彼の反応に皆が唖然とする中、二頭のズメイは互いに顔を見合わせて頷いていた。
「そんで、どうすんだ?」
 肩口で軽く大剣を叩きながらアクセルは再度問う。表情は僅かに硬いものの、笑みは浮かべたままで。
 その間も闇魔は、ただただ蠢いているだけだった。
「言葉が通じてねぇ、とか?」
 疑問符を浮かべつつも、それはほぼ確定事項らしく困ったようにアクセルは頬を掻く。
 近くでセアドが「ほら見ろ」と呟くのが解って、その時には思わずターヤは前に足を踏み出していた。
「お、おい、嬢ちゃん!?」
「ターヤ、近付くな!」
 セアドとエマの声も聞こえないくらい、現在ターヤの意識は湖に居る闇魔に向けられていた。声が、誰かの声が聞こえてくる気がしたのだ――聞き覚えのある、余裕でありながらも、どこか悲痛そうな声が。
 ふらふらと足取りも危うく歩く姿はインヘニエロラ研究所跡での彼女を連想させ、何かが起こる前にとエマは止めようとするが、既に彼女はアクセルの隣に辿り着いていた。
「ターヤ、おま――」
 気付いて振り向いたアクセルの表情が固まる。そこに居たのは、あの時自分を容赦無く吹き飛ばした、けれども二度目には助けてくれた、空虚な少女そのものだったから。
 彼女はアクセルには目もくれず、湖面に浮かぶ闇魔に向かって手を伸ばした。
「どうしたの?」
 発された言葉は実に平淡だったが、その声に闇魔は反応を見せていた。
『……の、こえ、……か……』
「久しぶり」
 ターヤであって『ターヤ』でない存在が黒い靄へと呼びかけた事で、皆の間に衝撃が奔る。
 だが、当の本人は眼前の闇魔以外は視界に入っていないようだった。
『……さか、おま……まだ、い……』
 闇魔の声はノイズがかかっているかのように聞き取れなかったが、白い少女には一言一句絶やさず届いているらしい。何を言っているのか解らない皆とは正反対に、彼女は普通に返答していた。
「違う。このわたしは『わたし』じゃない」
『……れご……を、い……』
「それも違う。ただの詭弁」
『……かな……つ……』
 突如として闇魔が蠢いたかと思いきや、少女の腕に絡み付いていた。
「!」
 反射的にアクセルは大剣を握る手に力を込めたが、眼前に手を出されて止められる。
「大丈夫。何もしないで」
「おまえ……」

 彼の呟きには反応せず、少女は闇魔に触れようとする。幼子をあやすかのように撫でるようにして動かされる手は、確かに慈しみの感情を潜めていた。
 それが気に入らないのか黒い靄は僅かながらに動作をするものの、逃れようとはしない。
「あなたは、何がしたかった?」
 唐突に紡がれた声は、少々非難めいた響きを含んでいた。
「オリーナに付け込んで利用しようとして、でも最期にはあんな事までして、あなたは何を得たかったの?」
「オリーナ、って……《背信の蠍座》のこと?」
 アシュレイの呟きを背景にしながらも、少女は闇魔に触れ続ける。まるで、そうしていれば『彼』の思考が読み取れるのだと証明するかのように。ただひたすらに、まるで宥めようとしているかのように撫で続ける。
 皆はもう、静まり返った中で唯一の会話を聴き取る努力はしていなかった。あの闇魔の言葉が理解できない以上、少女に任せるしかないのだ。
 黒い靄はしばらくの間されるがままになっていたが、前触れもなく答えた。
『……にも……ただ……かった…………のち……が……』
 瞬間、少女の手が動きを止める。
『……まえ、こそ……なんだ…………に、した……ると……りな……』
「確かに、今は知ってる。でも、今のわたしは『わたし』じゃない。だから、会う事はできない。会ったら、堤防が決壊するから」
 遮るようにして紡がれた言葉に対して闇魔が嘲笑を上げたのが、相手に表情が無くともなぜか手に取るように解った。
『……のほ……じこ……てきだ……』
「構わない。それが、前のわたし」
『……ふん』
 あくまでも淡々とした声に厭きたのか、黒い靄は少女の腕から離れて再び湖面へと戻った。
 そこで区切りが付いたと判断し、アクセルは彼女に声をかける。
「お、おい、ターヤ。おまえいったい何を話し――」
「――『ターヤ』?」
 瞬間、機械の如くぎこちない動作で振り向いてきた少女に、思わずアクセルは言葉を失いかける。それは人間とは思えぬひどく緩慢な動作であり、何より三度目に見た彼女の顔には今までと同じく表情が無かったのだ。いや、一概に『無かった』と言っては若干の語弊があるのかもしれない。何しろ、元から感情を持っていなかったような空虚が、そこには存在していたのだから。
 彼女が彼女でなくなるかもしれないという焦燥はもう覚えなかったが、普段の『ターヤ』とのギャップには未だに慣れないアクセルであった。
 そんな彼の様子など露知らず、少女は首を傾げてみせる。
「それが、今のわたしの名前?」
「今? って事はおまえ、何か思い出したのかよ!?」
 平淡な声に聞き流しそうになるが、少女が発した言葉にアクセルは反応し、彼女の肩を掴んでまで喰い付く。
 しかし、彼女は首を傾げただけだった。
「思い出す? 何を?」
「何を、って――」
 そこでようやく、アクセルは会話が噛み合っていない事に気付いて黙り込んだ。
 少女も追求する気は毛頭無いらしく、両肩に置かれている青年の手を優しく振り払うと、再び湖上の闇魔へと向き直る。その黒き靄の前に立ちはだかると、彼女はじっと彼を見下ろした。
「選んで」
 闇魔は言葉を発さない。
「ここで《調停者》に斬られるか、わたしに見送られるか」
『……は……にを……さら……』
「それは、了承?」
 今度はノイズすら聞こえてこなかったが、音無き声は少女の耳には確かに言葉として届いていたらしい。彼女は確認するように小さく頷くと膝を追って屈み込み、闇魔と視線の位置を合わせた。

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スコルピオ

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