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九章 憎悪の矛先‐Sin‐(8)

 肯定するのは苦しかったが、それでもターヤは何とか頷いてみせた。
「うん。わたしとアクセルとスラヴィで、ブレーズのお父さんと……アストライオスと、戦ったの」
 途端に、言ってしまった、と心の中で後悔が鎌首をもたげた。知らないふりをして黙っていれば良かったのにと囁く悪魔も居たが、それでもターヤはこの痛みと向き合わねばならないと踏ん張った。何より、アクセル一人に背負わせたままの方が、ずっとずっと悔み続ける事になると思ったのだから。
 マンスはよほどショックだったのか、口を閉ざして目を足元に落としてしまった。
「アストライオスが《守護龍》だと知ってて戦ったのか」
 冷静だが、どこか憤激を湛えているセアドが間を開けずに口を挟む。
 彼に対してターヤは弱々しく首を振った。
「違う。アストライオスが《守護龍》だって事は知ってたけど、でも、殺すつもりなんて無かったの」
「なら、んで殺したんだよ! 何でそいつが《龍殺しの英雄》と呼ばれてんだよ!」
 彼の叫びに込められた感情に、思わずターヤは返す言葉を喪った。何とか保っていられた勇気は全て虚空へと溶け去り、後に残ったのは罪悪感と後悔だけになる。
 何も言わなくなってしまった少女にとうとう痺れを切らしたのか、セアドは彼女から視線を元の方向に戻した。
 彼の行動から先が読めたターヤは、慌てて我に返ると制止を呼びかける。
「ま、待って! 最後まで話を聴いて!」
「煩ぇ! 今ここで、アストライオスの仇を取ってやる!」
 しかし激情に支配されているセアドには、彼女の言葉など通じる筈も無かった。彼は感情が導くままにアクセルへと殴りかかっていく。
 反射的に止めようとした一行だったが、それはアクセル自身によって制された。
「誰も手は出すなよ。これは、俺の罪だ」
 後ろは決して振り向かず、眼前だけを向いたまま左腕だけで皆を留めると、彼は真正面から相手を迎え撃つ。
 セアドはまず始めに、アクセルへと殴りかかってきた。
 だが、これをアクセルは難無くかわす。そこで反撃に出るのではないかと誰もが思ったが、皆の予想に反して彼は回避しただけだった。しかし、その表情は動作には比例しておらず、後悔に塗れたものである。
「っ……こんの、ヤロッ……!」
 簡単に避けておきながらそのような顔をしている事に更なる苛立ちを覚え、セアドは身体を強引に反転させると、再び拳を振り上げた。
 だが、何度も、どこから攻撃してもアクセルには掠る事すら無かった。
 次第にセアドの意気は上がっていくが、それに反比例してアクセルから疲労の色は微塵も窺えない。
 それが更に彼の怒りを煽る結果となった。
「くそっ……!」
 悪態を吐いて地団太を踏むセアドの姿を見て、思わずマンスは視線を逸らしていた。彼とフェーリエンで自分に襲いかかってきた暴徒達の姿が、重なって見えたからだ。自分が悪い行いを仕出かした訳ではないというのに、どうしてか後ろめたさを覚えた。
 眼前の敵へと視線を戻したセアドは、直前までよりも尚いっそう強化された激情を彼へと向ける。
「ちっく……しょぉぉぉぉぉ!」
 そのまま喉が枯れるのも気にせずに叫び声を上げるや否や、残っている力全てと体重移動による腕の加速を糧とするかのように、セアドは憎き仇敵へと向けて今までの比にはならない渾身の一撃を放つ。
 だが、その拳は、アクセルの片方の掌によってあっさりと止められてしまったのだった。
「――っ!」
 大きな衝撃を受けたセアドを見たままのアクセルの顔は、どこか親を見失った幼子のようでもあった。


 同時刻、ブレーズ・ディフリングは〔月夜騎士団〕本部の敷地内に位置する草地にて、相棒の龍クラウディアと共に寝転がっていた。

 クラウディアに上半身だけ寄りかかり、組んだ腕を頭の下敷きにした格好で、彼はひたすら空を睨み付けている。その瞳の奥では、強い炎が燃えていた。
 昨日アウスグウェルター採掘所から帰還してすぐに、彼は時間を気にせず相棒と共に鍛練を行っていた。それが終わってからも部屋には帰らずにこの場で彼女と共に眠りに就き、そして起床後にもまた鍛練を行った後、休憩がてら二人で寝転がっている訳である。
「何をしているのかな?」
 唐突にかけられた声に視線を動かせば、少し離れた位置に見知った青年が立っていた。
 フローラン・ヴェルヌ。本人の戦闘力は〔騎士団〕内においては最低クラスだが、口舌においては誰よりも長けている上、その年齢にそぐわぬ高い戦闘能力を誇る《殺戮兵器》エディット・アズナブールの手綱を握れる唯一の人物でもある。
「貴様か」
 ブレーズはゆっくり上半身を起こすと、彼と視線を合わせる。
「俺様に何か用か?」
「君の復讐は達成できたのかどうか気になって来たんだけど、その様子だと失敗したみたいだね」
 話題が話題だというのに彼は笑みを絶やさない。
 だが、それが『フローラン・ヴェルヌ』という人物だと理解しているブレーズは、その事については気にしない。その代わりに口を開いた。
「『レガリア』に介入された。あいつさえ居なければ、《龍殺しの英雄》をこの手で始末できていたというものを……!」
 鬱血してしまいそうなくらいに強く拳を握り締めたブレーズを慰めるかのように、クラウディアが首をその頬辺りへとすり寄せた。切なさそうな声を上げる。
 途端に彼は眉間のしわを取り払って微笑むと、彼女の頭を撫で返す。それから何気無く視線をフローランに戻して、
「……!」
 相手の形相を目にして、思わず言葉を失った。
 彼は、笑っていなかった。何があろうと、意味が異なろうと、常に笑みという名のポーカーフェイスである筈のフローラン・ヴェルヌは、しかし今は随分と冷えた表情となっている。そこに浮かんでいるのは、単に『憎悪』という単語だけでは表せない複雑な感情だった。
「そっか、そうなんだ」
 その顔を目にしその声を耳にしたブレーズの背筋を、一瞬だけ冷たい何かが駆け抜けた。
 しかし、すぐにフローランの表情は元に戻る。
「それにしても、あの女が自ら介入したって事は、彼らは世界にとって随分と重要な役者みたいだね」
 現在進行形で二人の会話を盗み聞きしている第三者へと視線だけを放りながら、どこかわざとらしく彼はそう言った。
 そうとは知らないブレーズは続ける。
「それと、おそらく《エスペリオ》と思われる奴も見た」
「へぇ、そうなんだ」
 言いながら神妙な面となったブレーズとは対照的に、フローランは興味深そうに笑みを深める。ただし、その奥底にはある種の含みを込めて。


「……まだ、やるか?」
 結局、あの後もセアドはアクセルに一発の拳すら入れる事ができなかった。しかも、アクセルは一度たりとも自分から攻撃を仕かけてはいないのだ。重い武器を背負ったまま素手で戦ってもここまでの差があるという事は、アクセルが強すぎるのか、それともセアドが弱すぎるのか。どちらにせよ、勝敗は誰の目にも明らかであった。
「――くそっ……くそぉっ……!」
 全ての苛立ちをぶつけるかのように、彼は膝を付いた姿勢のまま、何度も拳を地面へと叩き付ける。

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