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七章 天地の攻防‐revenge‐(2)

「おまえ、図書館の――」
 隣で発された声に反応すれば、アクセルが驚を顕にした顔で彼女を見ていた。
(知り合いだったの?)
 驚くターヤだったが、それを問うよりも先に闇魔が新たな闖入者へと向けて殺到する。
「! 逃げ――」
「! 危な――」
 アクセルとターヤは同時に叫んで、
 けれど、少女は臆する事も怯える事も無く、左手を軽く横薙ぎに振った。
「消えなさい」
 その、たった一言と一動作だけで。
 あれ程の大群であった筈の闇魔は、一瞬にして跡形も無く吹き飛び消え去っていた。
 その一瞬の出来事に、二人は唖然とする。
 しかし、少女は対した事でもないと言うかのように、そちらはもう見向きもせず、三人が居る方へと直進してくる。未だ張られたままの〈結界〉の横を通り過ぎて、彼女が向かった先は《守護龍》アストライオスの亡骸の傍だった。
「……っ」
 アクセルが耐えられなさそうに顔ごと視線を逸らす。
 その間にも、少女は龍の前に腰を下ろしたのだった。ふわり、と膝よりも長いスカートが花弁の如く上品に広がって、皺を付けずに彼女の足を覆い隠す。
「死んで、しまわれたのですね」
 薄く艶やかな唇から発せられたのは、哀愁を漂わせる美しい響きだった。
 その美声に、思わずターヤとアクセルは聞き惚れてしまう。
 やはり、そこでもスラヴィはスラヴィだったのだが。
「けれど、これもまた『運命』なのだから――」
 静かに呟かれた声に眼を細めた者が居た事を、彼女は知らない。
「せめて、私は貴方の為に詠いましょう」
 彼女は周囲を気にせず、瞳を閉じて、そのまま胸の前で音も無く両手を組み合わせた。まるで、神へと祈りを捧げるかのように。
「『una notte di chiaro di luna e questa sera e anche transitorio』――」
 それは、嘆きの旋律だった。《守護龍》の――アストライオスの死を心から悼む者だけに赦された、追悼にして哀悼、慟哭にして嘆息の詩。
「――『E benedetto dall'albero di mondo』――」
 胸を締め付ける歌声にただただ苦しくて、気が付いた時にはターヤはアクセルの手を両方の掌で覆っていた。持ち上げてぎゅっと握り締めたそこに、額を押し付ける。
「――『Rimanga dalla cresta di resto』――」
 彼が驚いたように視線を向けてきて、けれどすぐに握り返してくれる。
「――『Tutte le vite nel mondo』――」
 その手に縋りながら、先程の出来事を必死に忘れようとして。
「――『Sotto il grande spirito del morto』――」
 けれど、到底忘れられる筈も無かった。
「――『Ora e sonno pacato』――」
 そして、忘却と言う選択肢に手を伸ばした自分自身を内心で強く叱咤する。
「――『Se Lei per favore, Dio』――」
 自然と青年の手を掴む掌に力が籠もり、小刻みに震え始める。
「――『Per favore dia il futuro felice』――」
 ごめんなさい、本当に、ごめんなさい――内心で繰り返される謝罪の言葉は、きっと彼には届かない。
「――『Quando la campana di un suoni di vita』――」
 それでも、どうしても言わなければならないと思ったから。
「――『Mi permetta di cantare un'aria――』……」
 鎮魂歌は幕を下ろし、閉ざされていた瞼が開けられる。

「どうか、来世では貴方に抱えきれんばかりの恩恵が振らん事を――」
 そう、少女が紡いだ瞬間だった。
 横たわっていた龍の巨体が光の粒子――〈マナ〉へと化したかと思いきや、ゆっくりとした速度で天へと向かって昇っていき始めたのだ。それはまるで奇跡が起こる前兆のようだったが、実状は正反対だった。
 どこか神秘的かつ圧倒的なその光景の前では、誰もがほんの少しでさえも言葉を発せず、何らかの行動すら起こせなかった。ただ、静かに祈りを捧げる少女だけが、この空間自体を支配しているようで。
 それら全てが昇り去って消えた時、そこに残っていたのは四人の人間だけだった。
 そして、その中で口を開いたのはただ一人。
「あぁ、生命が喪われていく――」
 銀髪の少女、その人。彼女の声は悲痛そのもので、知らず知らずのうちにターヤは心中に燻る激痛と後悔を肥大させていた。
「おまえは、何者なんだよ?」
 しばらくして、アクセルが訪れた静寂を破る。
 少女はこちらを振り向いて、しかし哀しそうな困ったような曖昧な笑みを浮かべただけだった。
「それはまだ、御答えできません。私の名は総ての鍵であり、私の存在は全ての核ですから」
「何だよ、それ」
 これが普段ならばアクセルは思い切り眉を顰めるところなのだろうが、今の彼は後悔に大半を占められた表情のままだった。切なげに、苦しげに歪められたそれは、見ている方も辛くなってしまう程のもので。
「なら、ここに何しに来たんだよ? 〈星水晶〉でも捜しに来たのかよ?」
 続けて向けられた問いに、少女は首を振った。
「いいえ、そちらにいらっしゃるラセターさんと同じ目的ではございません。私は久方ぶりに《守護龍》さんに御会いしに来たのですが……来てみれば、このような状況になっていまして」
 その言葉に、アクセルはまるで責められたかのように視線を逸らしたが、ターヤは内容に驚愕したのだった。
「どうして、スラヴィのことを知ってるの!? それに、目的だって……!」
 もしかして二人は知り合いなのだろうか、と弾かれるようにしてスラヴィを見る。
 そこで目にしたのは、無表情の中に一端の感情を垣間見せる少年の姿だった。決して友好的なものではなく、寧ろそれは憎悪や嫌悪に近い。
「……!」
 思わず背筋を恐れが奔った。
 だが、そのような瞳を向けられて尚、少女は気にしたふうも無い。
「やはり、私が御嫌いですか」
 困ったような笑みと共に発された言葉に対して、スラヴィはゆっくりと前方に立つ少女の方へと足を踏み出し始めた。一歩、一歩。等間隔の足幅で進んでいき、彼女の丁度手前で止まる。
 そして、自分と彼女以外の誰にも届かない声で、何事かを告げた。あくまでも答えは求めず一方的に、はっきりと。宣告し終えると、スラヴィは特に感慨も何も見せず感じさせず、その場に残る。
 対して、少女はすぐには何も返さなかった。その顔は、何を言うべきかと考えあぐねているようでもある。
「きっと、貴方にはいつか謝らなければならないのでしょうね」
 しばらくしてから、ようやく開かれた口から零れ落ちたのが、それだった。
 その時のターヤには、言葉の意味までは解らなかったが、彼女の顔からスラヴィに対する感情の一端は強く伺えていた。
 彼の言葉を聞くまでの彼女とは完全に極端に位置し、弱々しくて、儚げで、微かで、脆すぎて、軽すぎて、壊れやすくて、崩れやすくて、どこまでも小さな――それは、決して許されぬもの。

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