The Quest of Means∞
‐サークルの世界‐
六章 聖地護る者‐Craftsman‐(9)
しかし、エマの表情は苦々しく歪められるだけだ。
「ヘカテー……!」
睨み付けるような視線を真っ向から受け止めて、彼女は彼を嘲笑う。
「何だ、その顔は。ここはあたしに感謝すべきところじゃあないのか?」
「誰が貴様になど礼を述べるものか。即急にアシュレイに身体を返せ」
「つれないなぁ」
隠さず敵意を向けてくる彼に、彼女は肩を竦めてみせる。
だが、そのような冗談にいちいち反応するエマではない。
まるで少しもぶれぬ視線から逃れるかのように、彼女は肩を落として首を傾けた。
「相変わらず無愛想な奴だな。どうして『チーター』にはあれ程優しいというのに、あたしにはこんな態度を取るんだろうなぁ?」
今度は腕を組んだまま、彼女は尋ねた。別に誰に対してという訳ではなく、それは自問自答に近い。尤も、最初から答えを持っているからという理由もあるのだが。
だからこそエマは黙す。答える必要が無いと理解しているからだ。
それは彼女も承知の上なので、答えを待たずに次の言葉を発していた。
「まぁ、それが『おまえ』なのだろうな」
「貴様こそ相変わらず意味深な発言ばかりする」
「それが『あたし』だからさ」
ふふんと得意そうに鼻を鳴らして、彼女はくすくすと笑った。
「それにしても、いつの間にか随分と取り巻きが増えていたなぁ。しかも、全員おまえの『仲間』とやらだろう?」
「それがどうした」
エマにどのくらい強く睨み付けられようとも、彼女は全く動じない。寧ろ、楽しそうに両手を広げただけだ。
「いやいや。面白いと思ってなぁ」
「面白い、だと?」
「ああ、面白いぞ。何せ、あのエマニュエル・エイメが『仲間』を連れているんだからなぁ」
それは、嗤い。あからさまな侮蔑と嘲笑と憐憫と畏怖を隅々まで余す事無く浸透させた、どこまでも故意と悪意と他意が滲み出してくる、毒素の言葉。
その黒魔術は徐々に彼の内側を侵食していく。振り払おうと彼は意識的に五感を遮断するが、一度認識してしまった『異物』を完全に払拭することは可能ではなく、結局のところは諦めた。
それを見て、彼女が嗤う嗤う。
「おやおや? 今日はいつもより早いな」
「まともに正面から相手をするのが面倒になっただけだ」
「そうかいそうかい」
相変わらず嘲笑を絶やさない彼女に、いいかげん痺れを切らしたのか、エマは振り払うようにして眼を閉じた。
「……もう良い。今すぐアシュレイと代われ、《冥府の女神》」
瞬間、彼女の両目が最大件にまで見開かれ、足元の陰から黒い靄が一気に噴き出した。その半分は瞬く間に彼女の周囲を覆い、残りの半分は彼女の下に入り込んで身体を持ち上げる。
それが収まった時、そこに居たのは三つの首を持つ大型犬と、その上に腰かける少女の姿だった。
敵意よりも呆れが表に押し出される。
「《地獄の番犬》まで持ち出してくるとは……」
「おまえがあたしをその名で呼ぶからだよ、『ヒポクリト』」
まるでエマのせいだと言わんばかりに、アシュレイの身体を借りている彼女は――上位闇魔である《冥府の女神》ヘカテーは嗤う。それから自分を乗せた犬、自身の眷属たる闇魔の《地獄の番犬》ケルベロスの頭を撫でた。
撫でられたケルベロスはといえば、普段の獰猛さが嘘のような穏やかさで主の手を受け入れている。その光景だけ見れば、彼がかの《地獄の番犬》とも恐れられる猛獣だとは誰も思うまい。
一方、エマは盛大に眉を顰めていた。
「その名で呼ぶなと、以前にも注意した筈だが?」
「おや、そうだったかな?」
だが、ヘカテーはあくまでも白をきる。嘘を吐けと言わんばかりの表情に言動だった。
「悪いが、あたしは物忘れが酷いんだ。それに、あたしが表に出てきたのは、何も雑魚共を一掃して久々に外の空気を吸う事だけが目的じゃあない」
「他に用事があるとでも言うのか?」
冷気を増したエマを宥めるように、ヘカテーは手首を振る。
「そんな眼で見るなよ、恐い怖い。誰も何事かを仕出かすとまでは口にしていないさ。あたしは忠告をしにきたんだ、『ヒポクリト』」
「忠告だと?」
またいつもの戯言かとでも言いたげに、エマは不信感極まりない表情になる。
それでもヘカテーは嗤っていた。
「そう、忠告だ。あの穢れなき白には、『ヴォルヴァ』には、気を付けた方が良い」
白、と言われて思い浮かぶのは一人しか居なかった。それが益々、エマのヘカテーに対する不信さを加速させる。
「どういう意味だ?」
「言葉通りの意味さ。あまり気を許し過ぎると、その色に染められて浄化されてしまうだろうよ。特におまえは『ヴォルヴァ』には感化されやすいだろうからな」
これでも随分と具体的な返答に、エマは思わず驚き顔になった。
普段の彼女ならば、ここで「さて、どういう意味だろうな?」などとはぐらかすようにして答える事を誤魔化そうとするからだ。常に抽象的な説明と答えしか寄越さない筈の《冥府の女神》の変貌に、彼は唖然とする。
「ではな、せいぜいあたしの忠告を覚えておく事だ」
そう言うや否や、少女ことヘカテーは瞳を閉じた。
それと同時にケルベロスの姿も消える。
珍しく素直に代わった彼女に若干の戸惑いを覚えつつも、それを確認してからエマは躊躇いがちに彼女の名を呼ぶ。
「アシュレイ」
その声に呼応して、ゆっくりと瞼が持ち上げられた。そこから現れた茶色の瞳が眼前の青年を捉え、
「エマ、様……?」
少女ことアシュレイはきょとんとした顔で彼を見た。それから、困惑したように頭に手を当てる。
表人格たる『アシュレイ』を押し退けて、裏人格たる『ヘカテー』が出て来た時、表の彼女に裏の少女の記憶が残る事はいっさい無い。故に、現在もアシュレイは途中の記憶がすっぽりと抜け落ちている状態なのだろう。
「あ、あれ? 私、何をして……」
「おそらく、立ち眩みによって一瞬意識が飛んでいただけだろう。気にすることは無い」
遮るようにして適当な理由をつければ、彼女は納得したらしく申し訳なさそうに頭を下げてきた。
「すみません、エマ様」
違う理由にすれば良かったかと少々後悔しつつ、それでも顔には出さない。その反面では、謝らなくても良いと言った筈なのだが、と苦笑もしていた。だからエマは首を振る。
「いや、良い。それよりも先に進もう」
言いながら歩き出したエマは、背後で「はい!」と気合を入れて叫んでから追いかけてくるアシュレイを、振り返ろうとはしなかった。
何かに突き動かされるように先行するアクセルと、彼を必死で追いかけるターヤ。明らかに距離の開きそうな構図でありながら、なぜか二人が走り始めてからもその距離が広がる事は無かった。
理由は簡単、アクセルが彼女に合わせて速度を落としているからである。
ケルベロス
ヘカテ―