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五章 胎動する闇‐Mule‐(5)

 ところで、件の馬車はといえば、一行の横を通りすぎていったかと思いきや、その少し先で急停止した。
 何事かと道行く人々やエマが注目する中、御者台から降りてきたのは一人の老人だった。彼は二頭の馬を何度か撫でて落ち着かせ、その場に留めると、次に一行の居る方へと速足に向かってくる。
 彼の行動から、説教か謝罪かは判らなかったが、確実にターヤに話があるのだろうとエマは察した。
 だが、ターヤ一直線に意識を集中しているアシュレイ、彼女の眼光に嫌な予感を覚えているターヤ、特段怒られるような事はしていないというのに条件反射で動揺に冷や汗を流しているアクセルは、周囲の様子を全く認知していなかった。
「あんたねぇ、自分が轢かれそうに――」
「アシュレイ」
 名前を呼ぶと、途端に彼女は姿勢を正してエマに向き直った。
「はい、何でしょうか、エマさ……」
 そして、現状を知ったらしく、最後まで言葉にせず途中で切ってしまう。
 彼女の視線を追った事で、ターヤとアクセルもまた老人と馬車を視界に入れたようだった。青年は巻き込まれるものかと彼女を離して距離を取り、少女の顔は急速に事態を把握して蒼ざめていく。
 その間にも老人は少女の前まで辿り着くと、俯けがちになっていた顔を上げる。
(お、怒られる……!)
「――嬢ちゃん、大丈夫だったかい!?」
 が、老人の言葉も表情も、ターヤの予想とは真逆であった。
 思わず内心身構えていた彼女だったが、正反対の事態に両目を丸くして瞬かせる。
 相手の反応は察知していないのか、老人は至極心配そうな顔で少女を覗き込み、その肩を両手で掴んでいる。欠片も怒りを覚えている素振りは無かった。
 これには、ターヤの方が戸惑ってしまう。
「あ、えっと……はい、大丈夫。です?」
「そうかい、それなら良かったよ……」
 ひどく安堵したように息を吐いた老人に、ターヤは申し訳なくなってきた。実際のところ何が起こったのかは全く理解していないのだが、アシュレイの態度から考えるに、自分の方が悪い事は目に見えていたからだ。
 彼女の胸中など知る由も無い老人は手を離すと、頭を下げる。
「本当にすまなかったねぇ。では、わしはこれで失礼するとしよう」
 そう言って老人は一行から離れ、馬車の方へと戻っていた。二頭の馬の頭を撫でてから馬車に乗り込み、しばらくすると再び車輪が動き出す。
 反対方向へと去っていく馬車を、後ろ髪を惹かれるかのように目で追うターヤ。
 そんな彼女に、エマの説明が入る。
「先程の方は〔アクィリフェルの方舟〕の者だろうな」
「あきりふぇるのはこぶね?」
「ア・クィ・リフェル!」
 上手く聞き取れず首を傾げたターヤには、アシュレイから鋭く訂正が飛んだ。
「あ、ごめん……えっと、そのアキ……じゃなくて、アクィ、リフェル、って、ギルド?」
「ああ、〔アクィリフェルの方舟〕――通称〔方舟〕は運搬ギルドだ。商品を輸送したり、人を目的地まで連れていったりと、世界中を飛び回っている。世界的にも有名で、最大の売りは『どのような道でも通れる』という点だ。言葉通り、彼らは人が自力では歩けないような場所も進めるそうだ」
「へー、凄いんだね」
「『凄いんだね』じゃないわよ、この馬鹿」
 ぎろりとアシュレイに再び睨まれて、ターヤは縮こまる。
「良い? さっきあんたは周りを見ていなかったせいで、あの馬車に轢かれそうになったのよ? 今回はそいつが助けてくれたし、さっきの人が優しかったから良かったけど、いつでもそう上手くいく訳じゃないんだから。もっと危機感を持ちなさい」
「う……ごめんなさい」
 威圧的ではあるものの正論なので、ターヤは更に小さくなって反省するしかない。

 彼女の素直な反応に免じて、アシュレイはそれ以上は何も言わなかった。
「そろそろ行こうか。このまま立ち止まっていても、他の方の迷惑だろうからな」
 エマの言葉で、一行は歩き出す。
「それにしても、さっきのターヤは危機感ゼロだったよな。戦闘だとあんだけ過敏になってるくせによぉ」
「そうかもしれないわね。町中だと基本的にモンスターとは遭遇しないから、その油断があるんじゃないの?」
 アクセルとアシュレイの言葉に、ターヤは苦笑いを浮かべるしかない。大よそ二人の言う通りなのだが、実は一度だけ戦闘中にすっかりと意識が他に向いていた事があるのだ。言うまでもなく、エンペサル橋で〔ウロボロス同盟〕の三人と戦った時である。
(多分、黙ってた方が良い、よね、うん)
 その方が、自分にとっては最良な気がした。
「ともかく、一旦この町で消費アイテムの補充を行おう」
「そんなに減ってたか?」
 訝しげに首を傾げたアクセルには、即座にエマの怒りの顔が向けられた。
「先程の《鋼精霊》との戦闘で、貴様が〔君臨する女神〕の者達に放り投げるようにして配ったのだろう? 悪い事ではないが、消費アイテムがいつでも無料で入手できると思うなよ?」
「あー……そう言えばそうだったな」
 般若の如き形相の一歩手前のエマからなるべく視線を逸らし、アクセルは誤魔化すように後頭部を引っ掻く。
 その様子を見たアシュレイは、アクセルへと呆れ顔を浮かべる。
「――そういえば、さっきの〔方舟〕のおじいさん、本当に大丈夫なのかしら?」
 と、そのような会話が耳に入ってきた。
 声が聞こえてきた方向を見れば、そこでは二人の女性が若干心配そうな顔で頬に手を当て、世間話の一環なのか言葉を交わしている。
「あぁ、さっきの人の良いおじいさんねぇ。あの人、大丈夫の一点張りだったからね」
「でも、あのおじいさんの馬車、車輪が壊れかけてなかった? あれは応急処置じゃどうにもならないレベルだったわよ? この町で職人にでも直してもらって、一晩泊まってけば良いのに」
「何か急ぐ用事でもあるんじゃないの? 〔方舟〕ってのは結構忙しいそうだから」
 後はもう、耳には届いてこなかった。
「アシュレイ!?」
 遠ざかる背後から名前を呼ばれた気も、通行人から視線を向けられている気もするが、今はそちらに構ってなどいられず、ただひたすらに駆けて――アシュレイは町を飛び出した。
 そして、見た。
 横転した馬車と、壊れた車輪と、地に座り込む老人と、彼を護るようにして立ちはだかる二頭の馬と、彼に襲いかかろうとするモンスターを。
 思考するよりも先に、身体が動いた。
「はぁぁぁぁぁ!」
 走りながらレイピアを抜刀、まずは老人に最も近い位置に居る燕こと《スワロー》目がけて突進し、馬とモンスターの間に割って入ると、その切っ先を敵へと刺突した。
 馬車が転倒してモンスターに襲われそうになったかと思いきや、一転して助けられた事に、老人は二重の驚きを覚えたようだった。状況が掴めていないのか、馬の後ろで尻餅を付きながら目を見開いている。
 その間にも、アシュレイは次の標的を巨大蟷螂こと《マンティス》に決定。攻撃に移っていた。
 真っ二つにせんと振られる鎌を素早くよけながら、スピードで相手を圧倒する。さまざまな位置に動いて混乱させ、完全に相手の死角に入った瞬間、逆にマンティスの方が胴体のところから二つに切断されていた。しかも一度で二つに分断されたのではなく、連続で何度も斬られた末に。
 この一連の所要時間、僅か数秒。

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