top of page

四十章 決意の果て‐telos‐(3)

 相手の手が遠慮がちに重ねられた事を確認すると、マンスは口を開いていた。
「『我は問う。汝――氷の化身よ、我と契約を結び給え』」
『応じる』
《氷精霊》が応えた瞬間、二人を中心とした魔法陣が展開し、そこから眩い水色の光が立ち上る。やがてそれが収束すれば、重ねられていた手は自然と離れていた。
『これから宜しく、我が主』
「うん、よろしくね、イーチェ!」
 奇しくも《鋼精霊》の時と似たようなやり取りで〈契約〉は締められた。
 無事に〈契約〉が完了した事を内心喜んでいたところで、ターヤはふと老婆の様子が気になった。密かにそちらを見てみれば、彼女もまた安堵したような表情を浮かべている。細かい事は解っていないのだろうが、長らく自分達を守ってきてくれた《氷精霊》の負担が軽くなった事だけは、判ったのだろう。
「これで《氷精霊》様の負担も減るんだねぇ……本当にありがとう」
 ターヤの予想通り、老婆は涙すら浮かべながらマンスへと礼を述べていた。
 これには少年の方が慌て出す。気恥ずかしそうにその頬に赤みが差し、視線が泳ぐ。
「あ、ううん、ぼくだって、イーチェが心配だったから!」
「それにしても、君は本当にこの村を好いているんだな。そうでなければ、十年以上もここには留まらないだろうからな」
『この村の人達には、居場所を貰った恩があるから。それに、人も全員が全員悪い訳ではない』
 話を逸らすかのようにレオンスが発した疑問には、込められた意味合いを汲み取った《氷精霊》が静かに答える。以前の《鋼精霊》のように、自分達を造り出した『人間』そのものを嫌っている訳ではないようだ。
「ところで、貴女方は、他の大陸に移住しようとは思われなかったのですか?」
「いえいえ、私達は昔から雪と共に暮らしてきましたから。確かに十年前よりは酷くなりましたけど、《氷精霊》様が護ってくださっていますし。衣食住にも今のところは困っている訳でもないので、大丈夫ですよ」
 アシュレイにしては遠慮がちな問いかけには、老婆が特に気にした様子も無く、寧ろ朗らかな態度で答える。決して虚偽などではなく、心からそう思っているようであった。
 傍から見れば決して楽ではないのだろう生活も、当事者達からしてみれば意外とそうでもないのかもしれない、とターヤは感じた。
「それにしても、《氷精霊》様が微笑まれるなんて、珍しい事もあったもんだねぇ」
 先刻マンスから名を貰った際の《氷精霊》の表情を思い出したらしく、まさに祖母のように老婆が微笑ましげな笑みとなる。やはり、あまり面に感情が表出しないのが《氷精霊》のデフォルトのようだ。
 すると、その言葉に記憶の引き出しを開けられたらしき《氷精霊》が口を開いた。
『珍しいと言えば、あなた達が来る数飛地前くらいに、雪山に向かった一団が居た』
 瞬間、一行の表情だけが一変する。
「それは、どんな人達だった?」
 真っ先に問うたのはスラヴィだった。
 他の面々も黙って答えを待つ。じわりと汗が滲み始めた掌に、ターヤは力を込めた。
『確か、青い服の一団だった』
 特段意識して見ていた訳ではないらしく、《氷精霊》は記憶を手繰り寄せながら返答する。
『おそらく雪山に向かっていた。その後、雪山から異様な気配を感じるから』
 間違いなくクレッソンとその部下達だと思った一行は互いに顔を見合わせ、水面下で緊張感を高めたのだった。


「御世話になりました」
 皆を代表するかのように、オーラは老婆を筆頭とした村民達へと向けて頭を下げる。
 現在は《火精霊》が〈結界〉の保持を引き継いでいる為、《氷精霊》もまた、村民達と共に村の出入口に来ていた。

 あの後、一行は老婆と《氷精霊》にどうしても雪山に行かねばならぬ旨を伝え、地元民である彼女らに気を付けておかねばならない事が無いかどうか尋ねた。すると、慣れないとここの環境は大変だから、とフィデース雪山までの道案内を《氷精霊》が買って出てくれたのである。まさかの事態には目を丸くしたが、一行はありがたくその申し出を受け入れる事にしたのだった。
「いえいえ、こちらこそ、いろいろとありがとうねぇ」
 やはり村長的立ち位置らしく、これまた村民を代表して老婆がオーラに言葉を返す。
 村人達は一行の方を向きつつも、珍しく神殿の外に出てきている《氷精霊》に意識の大半を奪われているようであった。しかし、それも無理は無い。この村に〈結界〉を張るようになってから、《氷精霊》は一度も神殿から出られなかったのだろうから。
 しかしターヤは、なぜだか自分に一対の視線が向けられているようにも感じていた。はて、と小首を傾げてみるも、その正体が掴める訳でもなく、その感覚が消える訳でもなかった。
「《氷精霊》様、皆さんを宜しくお願いしますね」
『任せて。あなたも、少しだけ村を御願い』
 老婆の言葉には《氷精霊》がしっかりと頷いてみせる。
「ええ、任せてくださいな」
 嬉しそうに応えてから、老婆は一行へと向き直った。
「それでは皆さん、御気を付けて」
「うん、行ってきます!」
 主にマンスが元気な言葉で、残りの面々が言葉や動作で応えてから、一行は《氷精霊》と共に踵を返して村の外に出ようとする。
 そこでターヤは、覚束ない足取りながらも、誰かが近付いてきている事に気付いた。振り向く前に起こった服を引っ張られた感覚により、自然と足が止まる。背後を見れば予想通り、彼女の腰くらいまでしかない少年が、彼女の服の裾を軽く握り締めていた。
「えっと、どうしたの?」
 声をかけても少年は何も言わない。視線を合わせず俯け気味に落とし、けれどもしっかりと服だけは掴んでいる状態だ。
 困惑したターヤは皆へと視線を送るが、彼らもまた目を白黒させていた。

 村人達だけは解っている様子だったが、その微笑まし気な顔を見るに、教えてはくれないのだろう。

 どうしたものかと思ったターヤが再び少年を見れば、今度はしっかりと面が上がっており、目が合う。そこには、まるで長年探し求めていたものを発見できたかのような輝きを秘められていた。
「おっ、ターヤにも、ようやく春が来たみてぇだな」
 それを目敏く見つけたアクセルが、意地の悪い笑みを浮かべて彼女と少年とを茶化す。
 だがしかし、ターヤには彼の言わんとしている事が全く理解できなかった。
「え? 今はまだ、冬だよね?」
 きょとんとした顔を向けられて、アクセルは途端に慌て出す。
「あー、いや、そう言う事じゃなくてだな」
「ターヤには、はっきり言わないと伝わらないと思うけど? 彼女は天然だし、そっち方面は疎そうだから」
 やりにくそうに視線を外した彼には、アシュレイが小馬鹿にする意図を込めた声を向けた。
 そうすれば、アクセルは言われてみればそうだったと言わんばかりに呆れ顔となる。
「そう言や、こいつはそういう奴だったよなぁ」
 二人のやり取りを聞いてもよく解らず、寧ろアクセルからは馬鹿にされている気がしてならないターヤである。
 だが、どうやら一行と村民の大半は把握しているらしく、どこか暖かな目で彼女と少年を見ていた。
「あー、ほら、よく言うだろ、今まで恋とは無縁だった奴がそうなった時に、『春が来た』ってよぉ」
 ますます混乱するターヤを見て、アクセルは少しの羞恥から視線を逸らしながらも解説してやる。
 ここまで説明されれば、流石のターヤでも理解できた。
「何だ、そういう意味だったんだ。それならそうだと最初に言ってよ」
 それから呆れたように言いながら、やはりアクセルも誰も、自分の恋には気付かなかったのだとターヤは知る。とは言っても、顔に出やすいだの解りやすいだのとよく言われていたので、その事は不思議に思えた。

ページ下部
bottom of page