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四章 精神の距離‐artificial‐(6)

 誤解している事には気付いているアシュレイだが、わざわざ訂正してやる必要は感じなかったので、そのまま流す事にした。ゆっくりと、再び歩き出す。
「それで、残り二つの質問だけど」
 わざとらしく大きめの声で言えば、彼女は一旦思考を中断してこちらに意識を戻す。そこで置いていかれかけている事を知ったようで、慌てて駆け寄ってきた。
「まず、ここはどの辺りかって質問だけど、この鍾乳洞はさっきまであたし達の居たエンペサル橋から見て南西の方向、フィナイ岬とは川を挟んだほぼ反対側に位置するのよ。とはいってもこの鍾乳洞自体が広いから、ここは南方の端でしょうけど。でも、多分ここならエンペサル橋に近いわ」
 追いついたターヤは、少し考えてから口を開く。
「って事は、そんなに流されてないの?」
「ええ。あんたとあたしが落ちた場所は急流だし深かったけど、それは前もって知ってたから対策もできたのよ。まぁ、失敗したら海まで流されてたでしょうね」
 彼女の言う『対策』が、どのようなものだったのかまでは話してくれなかったが、今こうして助かっているのだから、アシュレイの判断が正しかったという事だ。
 それよりも、ターヤは最後の一言に、濡れているせいもあるのだろうが、軽く寒気を感じていた。
(う、海まで流されなくて良かった)
 海の方が流れは遅いイメージがあるのだが、海岸近くならともかくとして、基本的に陸が遠く見渡す限り水一色な分、戻るのもなかなか大変だと思うのだ。その点、河川ならば岩などの何かしら掴まれる物もあるのだろう。
 あくまで素人の思考にすぎないが、アシュレイもまた同様に考えていたのかもしれない。
「それで、ここに流れ着くようにしたって訳。さっきまで居た場所に小さな湖があったでしょ? あの河は三角州から、あそこに繋がってるの。これが二つ目の質問の答えよ」
 少々不可解な点もあるものの、大よそ納得がいった。
「あたしもこの中を完全に把握してる訳じゃないけど、ここはそれ程入り組んでないから、迷う事も無いわ。だからあんたは逸れないように付いてきなさい」
「うん、解った」
 頷いたところで、唐突に思う。
 アシュレイの言葉や対応を表だけで受け流さずに噛み砕いてみると、このような場面などでは気を使ってくれていたりする事が多いと解る。今の発言もそうだ、言い方も態度もどこか刺々しいが、その内容はつまり『自分が先導するから心配しなくても良い』という事だ。今までの発言は一字一句覚えていないので捉え直しはできないが、おそらく《旅人》二人とは違って一般人に近いターヤには、特に気を配っていてくれた事だろう。
 そのように考えると、アシュレイは人一倍他人をすぐには信用できないだけで、実際は面倒見が良く優しい人なのかもしれない。
 そう思うと、ターヤにはアシュレイが身近に感じられた気がした。
(何か、ちょっと嬉しいな)
 意図せずに笑みが零れ落ちる。
「何笑ってんのよ、あんた」
 気配で感じ取ったのか、はたまた声が漏れたのか、とにもかくにもアシュレイが微笑むターヤを認知する。理解できないとでも言いたげな顔をしていた。
 対して、彼女は笑顔のまま首を振った。
「ううん、何でもないよ」
 すると彼女は益々渋い顔になり、そこで話は途切れる。
「そう言えば、昨日あんたは『ユグドラシル』について訊いたって言ってたわよね。どうして、そこまでして知りたかったの?」
 そう認識していたターヤだったが、少し間が開いて、再び声をかけられた。まさか、これ以上会話が続くとは思っていなかったので、思わず両目を瞬かせてアシュレイを見てしまう。
 その顔に、相手は眉根を寄せた。
「何よ、あたしがあんたに話しかけるのはそんなにおかしい訳?」

「えっ? ち、違うよ! ただ、びっくりしただけで……」
 反射的に飛び出した言葉で否定する。まだ信用されていないと思われる自分が彼女に話しかけられた事に、何事かと内心で軽く身構えたのもまた事実ではあるのだが。
 アシュレイはその事に関してはさして興味は無かったのか、そう、と返しただけだった。
「なら、あたしも質問に答えてもらえる? 別に言いたくないのならそれでも良いけど」
(やっぱり、アシュレイはちゃんと考えてくれてる)
 やはり言い方はどこか命令的で高圧的でもあるが、付け足された一文は逃げ道にもなっていた。答えを促しているようで、相手に選択ができるように計らっている。
 ターヤのようにふと気付いたり、最初からその事について考察したりしなければ、おそらくは知られないままで終わってしまう気遣い。元々の性格などに助長されているところが大きいのだが、アシュレイの場合は、まさにそれだった。
(何か、勿体無いな)
 それでもエマとアクセルは知っているのだろう。だから今でも口論の絶えないアクセルにしても、心の奥底では彼女を信頼しているのだ。
 そしてターヤはといえば、出会った当初は信用されていないという空気が肌で感じられて、その言葉を表しか捉えず、この人は苦手だと、大して接してもいないのに内心で決めつけてしまっていた。
「ううん、別に隠す程の事じゃないよ」
 けれど、気付いてしまった今ならば、ターヤにはアシュレイが怖いとは思えない。
「えっと、わたしが記憶喪失だって事は知ってたよね。それでね、リチャードと初めて会った時に、ユグドラシルの下まで来たら、自分の知っている『わたし』の事を教えてくれるって言われたの」
「だから、行きたいのね」
「うん。自分が何者なのか、わたしは知りたい」
 胸に手を当てて、数秒間だけ目を閉じる。
 その様子を黙って振り向いたアシュレイだったが、顔を元に戻すと呟くように言う。
「なら、せいぜい頑張りなさい」
 二回続けて予想外の言葉をかけられ、ターヤは目を瞬かせた。
「アシュレイなら、何かしら現実的なことを言うかと思ってた……」
 それに対して、彼女もまた驚いたように再び振り返ってきた。
「まぁ、確かにそうかもしれないわね」
 反応からするに、自ら意識しての事ではなかったようだ。無意識のうちに滑り出てきた発言だったのかもしれない。
 本人も先程の発言について、顔を俯けがちにしてまで少し考え込んでいた。
「……ああ、そうね。多分それだわ」
 思考の先に思い当たる節があったのか、アシュレイは何事かを呟いて自己完結する。
 だが、読心術が使える訳でもないターヤには理解できる筈も無かった。
「? どういう事なの?」
 するとアシュレイは顔をターヤに向けて、
「秘密よ」
 初めて、彼女に対して微笑んだ。
 思わず固まってしまった少女を置いて、アシュレイは先に進んでいく。それから気付いたのか立ち止まり、後方を見た。その顔は既に普段通りの表情に戻っている。
「何してるの?」
 不審げな声が飛ばされ、それでようやくターヤは硬直から脱した。慌てて駆け足で彼女の許まで行くと、今度は呆れた声が向けられた。
「別にぼけっとしてても良いけど、あたしとはぐれて迷子になっても知らないわよ?」
「そ、そうじゃなくて!」
「なら何よ?」
「だって、アシュレイが初めてわたしに笑いかけてくれたから、驚いて……」
「……は?」
 しかし、相手の反応は彼女の予想の範疇外だった。寧ろ、訝しげな表情で返されただけだった。どうやら、先程の微笑は無意識下の行為だったようだ。

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