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四章 精神の距離‐artificial‐(5)

「っ……!」
 そちらに意識が向いた時には、既に身体は完全に平衡感覚と足場を失っていて、後方へと倒れていく。
 しかも、その先は第一陣の針によって縄が断たれており、支えになる物は無かった。
「っ――」
「ターヤ――」
 誰かの手が伸ばされ、その顔を見た気もしたが、そこで彼女の意識は吹き飛んだ。


「……な……い……」
 どこかから、声が聞こえる。自分を呼ぶ声。
「……きな……い……」
 誰のものかは判らないが、だんだんとその声は大きさどころか鮮明さをも増し、まるで近付いてきているかのようだった。
「……きな……さい……!」
 否、これは自分の方が引き寄せられているのだ。
「――起きなさい!」
「っ!」
 瞬間、世界が覚醒した。
 それから一旦ぼやけるも、徐々に輪郭がはっきりしていく。そして視界に映ったのは、岩だった。ただしよく見る物とは異なり、細長い形状の物が多い。
「ここは……?」
「[ガハイムズフォーリ鍾乳洞]よ」
 声の聞こえてきた方向に視線を動かすと、そこには見慣れた顔が一人分。
「……アシュレイ?」
「ええ、あたしよ。いいかげん目は覚めた?」
 言われて初めて、自分が今まで眠っていたのだという事を知った。現在は目を覚ましたまま地面に寝転がっている事も、全身が濡れている事も。
 ゆっくりと上半身を起こすと、右側にはアシュレイが腰を下ろしている事が解った。彼女もターヤ同様、全身が濡れており、水を吸った髪が頬に張り付いている。そしてなぜか右腕の袖は破れているようだったが、岩にでも引っかけたのかと推測する。
 次いで、閃くものがあった。
「もしかして、橋から落ちる時に伸ばされた手って……」
「ええ、あたしよ。エマ様じゃなくて悪かったわね」
 言い終わる前に遮られた上、思ってもいなかった台詞を足され、ターヤは慌てた。
「別にそんなこと思ってないよ!」
「どうだか。だってあんた、あたしのこと苦手でしょ? まぁ、そこはあたしのせいでもあるんだけど」
 そう言われると言葉に詰まってしまう。確かにターヤはアシュレイが少しだけ苦手で、それが彼女の性質所以だとは解っているのだが、できれば仲良くなりたいとも思っているのだ。そう言うと鼻で笑われそうで、言葉にはできないのだが。
 相手が見せた反応を、アシュレイは自分の言葉通りだからだと判断し、ふんと鼻を鳴らす。
「まぁ良いわ。それより、とっととここから出るわよ」
 立ち上がった彼女につられて同じ行動を起こし、そこで初めてターヤは自分達が居る場所を視覚で認識した。
 そこは、広大な空間の一角だった。左側を向けば小さな湖らしき場所が有り、その縁辺りは濡れていた。天井を見上げれば、そこからは幾つもの細長い岩が垂れ下がっている。一見ただの洞窟のようで、しかしどこか神秘的な場所であった。
「そっか、ここって鍾乳洞なんだ」
 感動したように呟いたターヤの声に振り返ったアシュレイは、唖然としていた。
「あんた、さっきのあたしの言葉、ちゃんと聞いてなかったの?」

「あ、うん。寝起きだったから、何て言ってたのか解らなくて……」
 その上、聞き慣れない、長い名称、という二大要素も揃っていたので、自分にも解るような言葉に脳内変換しようとした結果、最終的に前半の『ガハイムズフォーリ』は理解できず、後半の『鍾乳洞』に至っては耳を通り抜けていった訳である。
 申し訳無さそうに笑う彼女を見て、相手は何とも複雑そうな表情になった。
「まぁ別に良いけど。行くわよ、質問があるなら歩きながらにして」
 言うや否、アシュレイは再び道がある方へと進み出す。
「あ、うん!」
 疑問に答えてくれる事を密かに安堵しつつ、ターヤは小走りにその後を追った。
 彼女が半歩程後ろに追いつくと、アシュレイは口を開く。
「で、何が聞きたいの? だいたい予想は付くけど。大方、ここはどの辺りなのか、河に落ちてからここに辿り着くまでの経緯、ってとこかしら?」
「あ、うん。あと、何で、あの時助けてくれたのか、かな」
 瞬間、アシュレイの足が止まる。思わず顔面衝突しそうになったターヤを振り向いた顔は、ひどく呆れていた。
 その顔を見て、地雷を踏んだのだと気付く。
「あんたねぇ、あたしをどんな奴だと思ってるのよ? あたしだって軍人よ? 困ってたり危ない目に遭ってたりする人を助けるのが仕事で、あたりまえの事なんだから。あんたを助けたのだって、そういう事。エマ様やアクセルよりもあたしの方が速かったのよ」
「あ、えっと、そういう事じゃなくて……」
「なら、どういう事なのよ?」
 益々アシュレイが睨みを利かせてきているようにも感じられ、この感情を上手く表現できる言葉が思い当たらないので、ターヤは何も言えずに先行して身振り手振りをするだけだ。
(えっと、何て言ったら良いんだろ……。あの時の、アシュレイの顔が――)
 必死に当てはまる言葉を探す様子を、呆れ顔で眺めるアシュレイ。
「言いにくいのなら無理に言わなくても良いわよ。そこまでして聞きたい訳でも――」
「――それだ!」
 唐突に、ターヤが俯きがちだった顔を持ち上げ、利き手の人差し指でアシュレイを指し示すような姿勢になって、叫ぶ。
 実際のところ、すっぽりと空欄を埋める言葉がターヤの脳内で思い浮かんだ瞬間と、アシュレイが口を開いた瞬間がほぼ同時だった、というだけなのだが、そこまで今は頭の回っていないアシュレイには理解まで至らないようだ。
「さっきの質問なんだけど、どうして助けてくれたのかじゃなくて、どうして助けてくれた時に泣きそうな顔をしてたのか、って言いたかったの!」
 言われた言葉に、アシュレイは精神が揺さぶられた気がした。
「泣きそうな、顔?」
 橋から河へと落ちていく彼女に手を伸ばした時、そのような顔をしていた覚えはない。無意識のうちの行動だったのかもしれないが、彼女相手に自分がそこまで感情を動かすとも思えない。
 しかし、真剣なのにどこか心配そうな顔をした少女は、その性格から推察しても、到底嘘を吐いているとは考えられなかった。
(なら、あの時あたしは本当にそんな顔をしてたって事よね。見間違いって可能性もあるかもしれないけど、どうして――)
 そこでふと、思い当たるものが一つだけあった。
 覚えは無いので確証も無いが、無意識のうちに現在の状況とあの時の事とを重ねていたのかもしれない。ならば、自分が泣きそうな顔をしていた理由もつく。
(……なるほど、そういう事ね)
 何気無く、言葉が口から滑り落ちる。
「全く、何であんたなんかに」
「え、えっと……何か、ごめんね?」
 その言葉を悪い方向に捉えたらしく、ターヤが縮こまった。それから顔を若干俯けて、何をしちゃったんだろうなどと、一人慌てた様子で呟いている。

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