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三十九章 明けない闇‐advance‐(12)

「けれど……こんな酷い女を好いてくださって、本当にありがとうございます」
 だが、彼女が彼へと向けたのは、本心からの感謝の言葉だった。
 弾かれるように顔を元の位置へと戻した彼が目にしたのは、紛れも無く嬉しそうに微笑んでいる彼女の姿。その瞬間、それだけで報われたと――充分だと、思えてしまった。
(これなら、もう、大丈夫だな)
 ゆっくりと瞼が伏せられ、口元が弧を描く。まだまだ残留するものはあったが、レオンスはそれら全てを奥底へと逆戻りさせ、努めて真剣な顔で話を本筋へと戻す。
「それで、先程の話だけど、受けるよ。他ならぬ君からの頼みもあるからな」
 予想外の流れだったらしく、オーラが目を丸くした。
 自分に対しては常にたっぷりな彼女の余裕を少しでも崩せた事が、何だかおかしくて、レオンスは笑みを零してしまう。ちょっぴり気分が軽くなった気もした。
 相手の笑みを理由に気付いたオーラは憮然とした表情になるも、それも一瞬の事だった。すぐに顔を正して声を返す。
「では、その場に屈んでくださいませんか?」
「? そんな事で良い――」
 言われた通りその場に膝を付いて背を低くしたレオンスは少々訝しげにオーラを見上げ、そこで言葉を失った。
 なぜなら、彼女の両手が彼の向かって伸びてきていたかと思いきや、顔もまた近付いてきていたからである。そのまま手は頬を覆うように触れ、そして顔――否、唇は彼の額に触れていた。
 瞬間、レオンスの脳内が真っ白と化し、意識が吹き飛んだのは言うまでもない。
 そんな彼の額に浮かび上がった一つの魔法陣に、オーラは口付け続ける。やがて、それが彼の中へと溶けていった時、ようやく彼女は唇を離した。
「これにて、〈契約〉は完了いたしました」
 そっと顔と手を離していきながら、オーラは本題の終了を告げる。
 しかし、未だに何が起こったのか解らずにいる彼の耳を、その言葉は右から左へと通り抜けていった。
「では、私はこれで失礼させていただきます」
 何事も無かったかのように去っていくオーラを見送りながら、レオンスはそのままずるずると縮んでいき、最後は丘の斜面に座り込む形となってしまった。
「……だから、いつまで経っても君を諦められないんだよ」
 深々と長い息が吐き出される。片手で顔を覆い隠しながら、彼はごちゃごちゃになった頭の中を何とか整理しようと試みた。けれども、そう簡単に上手くいく筈もなく、遂には膝を抱えるかのように頭が下がっていく。
『何だ、ようやく振られたのか』
 そこにかけられた愉快そうな声に反応して、ゆるりと顔を持ち上げれば、いつの間にか眼前には、紫の淡い光を纏った少女が浮かんでいた。
 彼女は――《雷精霊》は、玩具を発見したかのような、何とも楽しげな笑みを浮かべている。
 完全に野次馬根性を発揮している契約相手に、レオンスは苦笑せざるを得なかった。
「その言い方はどうかと思うな、トゥオーノ」
『だが事実だろう。おまえが《神器》と結ばれる確率は、限りなく零に等しかったのだから』
 彼女はあくまでも現実を突き付けてくるだけだ。慰めの言葉をかけるつもりなど微塵も無いらしい。
 あくまで通常運転の彼女にレオンスは苦笑を零した。どうしてか、今はあまり彼女に対する罪悪感を覚えなかった。
「確かに、そうだな。けど、それでも俺は彼女が今でも好きなんだよ。彼女以外の人に恋愛感情を抱く事は無いと、確信を持って言えるくらいにはな」
 眼前の彼女から視線を外し、彼は既に小さくなっている背中を見つめる。そうして、以前よりは晴れやかな気持ちでいられる自分に気付いた。
 そんな彼に《雷精霊》は目を丸くした後、完敗だと言わんばかりに両肩を竦めてみせる。
『……お見事。本当にお見事だよ、レイフ。俺にしないか、という冗談が使えなくなってしまったではないか』

「使われていたところで、俺は即座に否定していたよ」
『同感だ。おまえは、どこまでも一途な奴だからな』
 最初からその冗談を口にするつもりは殆ど無かったらしく、すぐ《雷精霊》は彼の言葉に同意を示した。
 解っているのなら、その顔でその冗談は止めてくれないかと反射的に言いかけたところで、レオンスは背後から近付いてくる気配に気付いた。
 同じく掴んでいた《雷精霊》は、ここぞとばかりに姿を消す。
 何ともマイペースというか自分勝手な彼女に呆れつつ、彼は立ち上がると振り返った。
「あれ、レオン、オーラと下りてったんじゃなかったの?」
 ちょうど《世界樹》との話を終えて丘を下りていたターヤは、中腹に居るレオンスの姿を見付けて目を瞬かせる。てっきり、とっくに市街地に居るものだと思っていたからだ。
「少し疲れが溜まっていたみたいだったからな、休んでいたんだ」
 普段と何ら変わりないように見えるレオンスだったが、ターヤは何となく違和感を覚えていた。口では説明できないが、何かが違うような気がするのだ。
「レオン、もしかして、オーラと、何かあったの?」
 思わずターヤは言葉を途切れがちにして、恐る恐る問うていた。
 まさか言い当てられるとは思ってもいなかった為、レオンスは思わず表情を崩してしまう。そこまで判りやすかっただろうかと思いながらも、すぐ普段通りの表情と態度を取り繕った。そして顔を覗かせてきたちょっとした意地悪心と共に、肩を竦めてみせる。
「ああ。振っておきながら、期待させるような行動を取られたよ」
 詳細は語らず要約して答えれば、ターヤは困ったように笑った。
「オーラも、罪な女だね」
 寧ろ、彼女の口から出てきたそぐわない言葉にレオンスは苦笑する。
「俺としては、君の口からそんな言葉が出てくる方が驚きなんだけどな。けど、そこまで知っていて好きになったんだ。後悔はしてないよ」
「そっか。レオンがそう思えてるのなら、良かった」
 僅かに目を見開いた後、ターヤは安堵したようにそう言った。そして笑う。
 一連のやり取りを経てレオンスは、彼女に対し、やはり意外と敏いところがあるのだなどという感想を抱いた。
 と、そこで他の気配を感じて視線を動かしたレオンスにつられて、ターヤもそちらを見てみれば、他の面々が丘を登ってきているところだった。無論、オーラやヴァンサン、リチャードの姿も見える。
 そうして一堂に介したところで、ターヤは不思議そうに首を傾げながら質問した。
「あれ、みんなどうしたの?」
「クレッソンは北大陸に居るなんて言ってたけど、信じる理由も無いからオーラに訊いたの。そしたら、全員で《世界樹》に訊きにいこうって言われたのよ」
 先頭にアシュレイに居たアシュレイは疑問に答えてから、後方のオーラへと視線だけを寄越す。
「正確性を増す為に《世界樹》さんにも御訊きした方が良いと、私が提案させていただいた次第です。あの方は全世界における〈マナ〉の流れを感じ取れますので」
「別にそこまでしなくても良いと、俺は思うんだけどね」
 オーラが明かした理由にスラヴィが鋭い指摘を入れれば、更にレオンスが口を挟む。
「まあ良いじゃないか。特に問題がある訳でもないんだろう?」
「レオのおにーちゃん、やっぱりオーラのおねーちゃんの味方だよね」
「まあまあ、行くなら行こうよ」
 呆れ顔のマンスを宥めるように、ターヤは皆を促す。わざわざオーラが《世界樹》の許に皆を連れていこうとしているという事は、何かしらの意図があるのだと推測できたからだ。
 皆もそれは承知の上らしく、彼女の言葉を合図とするかのように丘を登り始める。既に下で合流した際に一通り済んでいるらしく、オーラの件に触れる者は誰も居ない。
 かくして再び《世界樹》の前に集った面々に、しかし大樹が訝しげな声をかける事は無かった。
『北大陸の状況を訊きにきたのか?』

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