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三十八章 我らが王よ‐Mansour‐(12)

 はて、と女性は目を瞬かせる。自分の名は『フィオ』であり『フィオーレ』ではないのだが、と思わず首を傾げてしまう。また、声の主が自分の夫ではない事も何となく感じ取れていた。
 いったい何だったのか、まるで夢を見ているようであった、などと不思議に思いながらゆっくりと上体を起こせば、ゆったりとした足音が近付いていくのが解った。
「どうかしたのか」
 思わずそちらを振り返れば、そこに現れたのは、女性とは一回り以上も歳の離れているらしき一人の老人――彼女の夫であった。
「あなた……」
 見上げた先に居たのが誰よりも信頼している相手だった為、女性の顔は安堵に包まれる。普段と何ら変化の無い厳つい顔付きではあるが、長年連れ添ってきた彼女には、彼が心配してくれている事が手に取るように解ったのだ。また、それにより意識が現実に引き戻されてもいた為、感謝の意も込めながら、大丈夫だと告げるべく首を横に振ってみせる。
「いえ、大丈夫なのです。……ただ、どうしてか、懐かしい感覚になったのですよ」
 ついつい零してしまったそれは、彼女の本心だった。理由は全く見当も付かないが、いきなり胸を襲ってきたのは、間違いなく『懐かしい』という実にシンプルな感覚だったのだ。
 だが、この返答を聞いた老人は、古傷を抉られたかのように辛そうな表情と化す。
「……そうか」
 その意味が解らずに怪訝そうな顔となった女性の許まで歩み寄ると、彼はその隣に腰を下ろした。そうしてそっと肩に手を回し、そのままゆっくりと彼女を引き寄せる。
 訳が解らずに困惑を覚える女性だったが、何も言わず、抗う事もせずにされるがままとなった。何にせよ、ギルドのメンバーからも時々畏怖を抱かれる事のある夫が、感情を表すのがあまり得意ではない不器用な夫が、自分に対してだけはこれ程までにも甘い事が密かに嬉しかったのだ。
(そんなあなたが好きなのですよ、カートウッドさん)
 こっそりと声には出さずに女性が隣の老人へと告白した時。
 さぁ、と吹いた柔らかな風が、彼女の肩にかかるかどうか曖昧な長さの桃色の髪を、花弁の如く揺らした。


『良いでしょう。あなたを、わたしの後継ぎと認めます』
「っ……!」
 その言葉を耳が捉えた瞬間、《鋼精霊》の時よりも強い興奮がマンスを襲っていた。昔からの夢であった《精霊王》になれるのだと、ようやく実感できたのだから。
 ターヤ達もまた二度目になる息をつきながら、少年の悲願の達成を自らの事のように喜ぶ。
 けれども、本人以外でおそらく誰よりも歓喜していたのは、他ならぬモナトであろう。ずっと彼と一緒に居た相棒なのだから。現に、白猫は丸々とした大きな瞳の縁に、涙を溜めているようであった。
 すっかりと胸どころか全てを震えさせられているモナトを、屈み込んだレオンスはそっと地面に降ろす。驚いて見上げてきた白猫に頷いてやれば、途端に顔を輝かせてお辞儀をしてから、相棒の許へとすっ飛んでいってしまった。その様子に苦笑してみせながら、彼もまた甥へと思いを馳せる。
(本当に良かったな、チコ)
 一方《精霊女王》は地に足が付きそうなくらいの高さまで下りると、マンスを手招いた。その際、四精霊も倣うようにして降下している。
『さあ、こちらへ』
 促された少年は、ゆっくりと前に進み出ていく。そうして《精霊女王》の前まで辿り着くと足を止め、緊張が上回りつつある顔で彼女と視線を合わした。
 そんな少年へと女性は安心させるかのように笑いかけてから、そっと掌を見せるかのように手を差し出す。少年が恐る恐る手を重ね合わせると、彼女は瞼を閉じて歌うように言葉を紡ぎ始めた。
『我は全の化身なり。我、ここに後を継ぎし器を見定めたり。これより、我はその者へと我が力の全てを継承せん』
「……!」
 文言が最後まで唱え終えられた瞬間、マンスは自らの中で大きな変化が起こったのを感じ取った。思わず首ごと視線を落とせば自身の全身が薄く透け始め、足元には精霊との〈契約〉の時のように魔法陣が出現している。
 位を譲渡するという事は〈契約〉に等しいのだと、この光景を見た皆は理解してもいた。

 ただし〈契約〉とは異なり、魔法陣と精霊化は比較的すぐに収まってしまう。
「精霊化が、始まってる……?」
 それらを見送ってからも驚き顔で空いている方の掌を眺めるマンスへと、肯定するように《精霊女王》は声をかけた。
『はい。これで、あなたは《精霊王オベロン》となりました。ただし、完全に精霊化するにはまだ時間がかかりますから、それだけは忘れないでください。それと、いきなり精霊化が目に見える事もあるかもしれませんが、大丈夫ですから驚かないでくださいね』
『マンスールが完全に精霊化するまでは、俺達四精霊が支援しよう』
 どことなく茶目っ気を含んでいるようにも感じられる言い方をした元の主へと、間髪入れずに応えたのは、当人ではなく《火精霊》だった。
 彼に同意するように、他の三人もまた頷いてみせている。
 それを目にしたマンスは途端に頬を綻ばせ、確認した《精霊女王》は再び眼前に立つ彼へと向き直り、締めとばかりに言葉で託す。
『皆を頼みますね、次代』
「うん……じゃなくて、はい、先代!」
 興奮から普段の調子で頷きかけて、我に返ったマンスは慌てて言葉遣いを正した。
 自覚のある様子の彼を見た皆は親のような気持ちとなり、四精霊と《鋼精霊》、そしてモナトは王位継承が上手くいった事に安堵と祝福が混じった表情を浮かべる。
 召喚士一族も歓喜の渦に包まれているらしく、祠の出入り口付近は騒がしくなっていた。
『良かった、オベロン、さ――』
 だが、安心したように言葉を紡いでいる途中でモナトの身体がふらついたかと思いきや、そのまま倒れていく。まるで、先程の《鋼精霊》のように。
「モナト!?」
「「!」」
 即座に気付いたマンスは一転して、悲鳴にも似た声を上げながらしゃがみ込み、ターヤ達もまた目を見開く。
 倒れ伏しかけた白猫の身体は、寸でのところで彼が受け止めて抱き上げていた。
「モナト! どうしたの!?」
 顔を蒼くしかけながらマンスはモナトへと訊くが、返事は無い。それどころか、その身体は薄く透け始め、端から徐々に光の粒子へと化し始めていた。
「モナト! ……モナト!?」
 それにより彼の不安は加速し、瞬く間に余裕と冷静さは失われていく。
 ターヤは慌てて治癒魔術をかけようとして、そこで相手が人工精霊である事に気付く。少年に比べればまだ平静さを残している頭は、まさか、という考えを導き出していた。
『あなたも、限界だったのね』
 彼女の思考を肯定するかのようなタイミングで苦々しげな呟きを零したのは、他ならぬ《水精霊》だった。
 この言葉ですばやく彼女へと視線が集中し、続いてモナトへと戻っていく。
『そっか、わたし達でも気付けなかったのは、モナちゃんが必死に隠してたからでもあってけど、マンスくんとの〈契約〉が一応は形になってて、その後ろに隠される形になっちゃってたからでもあるんだ』
『しかも、どうやらマンスが結んだ〈契約〉が完全じゃなかったみたいだな』
 《風精霊》が紡いだ震える声と《土精霊》の呆れを含んだ声で、マンスは一瞬視界が真っ暗になった気がした。
 それはつまり、マンスがモナトと結んだ〈契約〉は上辺だけの不完全なもので、〈マナ〉の供給が充分にはできていなかったという事だ。そして当の本人は、それによる不調を今の今まで上手に隠し通しており、その片鱗を四精霊にすら気付かせなかったのである。その努力と忍耐は並大抵のものではない。
「ぼくの、せいなの……?」
 続いて彼は意識が遠のくような感覚に襲われ、口からは震える声が落ちる。

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