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三十七章 聖なる悪夢‐convertimini‐(2)

「苦しいのでしょう? 悔しいのでしょう? ……彼女を消し去り、彼を手に入れたいのでしょう? ならば、その想いを尊重しなさい。貴殿は、楽になる権利があるのですよ」
 この言葉で、ソニアはぐっと声を詰まらせた。最早それを卑しい事だと思う理性など、擦り切れてしまっていたのだから。
 その隙を見逃さず、クライドは彼女の奥で胎動し始めている闇へと――否、彼女の中に入り込ませた闇へと向けて語りかける。
「さあ、その内に眠る欲望に身を任せ、思うように行動しなさい。そうすれば、貴殿は救われるのですから」
「私、は――」
 もうソニアには、抵抗する気力すら残されてはいなかった。その影が、ぐらりと大きく揺らめく。
 そんな彼女を眺めながら、クライドは満悦の表情を隠せなかった。


 一行が〔軍〕の本部から外に出ると、首都の喧騒はすっかりと収まっていた。そのまま少し歩けば、すぐにユベールと〔屋形船〕の面々、そしてヌアークの姿が見えてくる。その近くには気絶しているらしき動物や魔物が寝かせられており、彼らの解放は完了したようだった。
「あら、無事だったのね」
 その姿を見付け、わざとらしく残念そうな顔を作ってみせたのは他でもないヌアークだ。
「うん。ヌアーク達も大丈夫だったんだね、良かった」
 それがからかいである事にも気付かず、ターヤは彼女達が無事である事に安堵した。
 途端にヌアークは渋い表情となる。
「あなたとは、どうにも話しにくいわ」
 思わず溜め息まで零してしまう程であった。
 だが、彼女の言いたいことが解らないターヤは不思議そうな顔になるだけだ。
 ある意味では最強かもしれないその天然ぶりに、知っていたとは言え、一行は苦笑いを浮かべるしかなかった。
「皆さん!」
 そこで、戻ってきていた一行に気付いたユベールが駆け寄ってくる。しかし彼はアシュレイが居ない事に気付き、おおよその事情を悟ったようだった。
「……スタントンさんは、《元帥》のところですか?」
 躊躇いながら、それでもユベールは問うてくる。軍人であった頃と比べると、彼の言葉遣いは少しばかり砕けているようであった。
「ああ、あいつは〔軍〕の本部に置いてきたよ。落ち着けば、戻ってくるだろうさ」
「あら、やっぱり情を捨てきれなかったのね」
 アクセルの返答には、ヌアークが思っていた通りだと言わんばかりの表情に変わる。まるで最初から、アシュレイの心情など見抜いていたかのようだった。
 そう直感したターヤは思わず尋ねていた。
「ヌアークは、解ってたの?」
「ええ。何となく、あたくしと同じ感じがしているように思えたもの」
 どうやらヌアークは無意識のうちに、アシュレイを同じく『父親』という存在に思うところのある者だと感じ取っていたようだ。
「そっちも片付いたみたいね」
 そしてファニーと数名の〔屋形船〕メンバーもまた一行の帰還に気付いたようで、こちらへと向かってきた。
「ああ。《元帥》は、倒してきたよ」
 彼女達にはレオンスが応えるが、その声は途中で不自然に途切れる。
 それを不思議に思ったファニー達だが、アシュレイの姿が見えない事に気付いたのか、そこに触れてくる事は無かった。
 そこでターヤは、ふと大切な事を忘れていたのに気付く。

「あ、でも、確か〔軍〕は世界中に拠点を置いてたよね? もし、そっちも首都みたいな事になってたりしたら――」
「いいえ、もう大丈夫よ」
 不安と心配とが前面に出た彼女の言葉を遮って姿を現したのは、他ならぬアシュレイであった。いつの間にか本部から出てきていたらしい。
「ペリフェーリカやトランキロラ、ヴィントミューレにある支部には、既に投降するよう連絡しておいたわ。《元帥》が倒された今となっては抗うのも無意味だし、元々最近の彼には疑問を持っていたみたいだったから、すぐ要求を受け入れてきたわよ」
 心配そうな皆の視線を受け流しながら、彼女はあくまでも普段通りの調子で述べる。
 養父を失った直後でありながら、既にそこまでこなしてきていたとは思いもしなかった為、ついヌアークを含めた皆は目を丸くしてしまう。
 けれども、ターヤは直感的にそれが虚勢であると感じていた。故に、躊躇いがちに声をかけてみる。
「あの、アシュレイ……本当に、大丈夫なの?」
 この言葉に今度は彼女の方が驚き顔となるが、その表情はすばやく取り繕われた。
「ええ。本当に、あたしはもう、大丈夫だから」
 明らかに言葉とは裏腹な様子だったが、そう言われてしまえば、もうターヤも誰も何も言えそうにはなかった。
 その事に内心で謝りながら、アシュレイは話を元に戻す。
「一応、あたしの名前で支部長達には今まで通り仕事に臨むよう言ってあるけど、幾つかの〔同盟〕に属するギルドを襲撃して壊滅させた上、《元帥》という中枢を失った今の〔軍〕には、大した力も残っていないと思った方が良いわ。人々からの信頼を回復する必要もあるしね」
「って事は、〔軍〕どころか〔同盟〕も頼れないって事になるね」
 遠慮もオブラートに包む事もせずにすっぱりと述べるスラヴィだが、彼の発言は紛れも無く事実であった。
 確かに〔ヨルムンガンド同盟〕には様々なギルドが属しているが、その中枢を占めていたのは他でもない〔モンド=ヴェンディタ治安維持軍〕だ。その一大ギルドが失墜した今、〔同盟〕は形骸化していると言っても過言ではなかった。
「そうだ、言い忘れていた事があったんだ」
 そこで思い出したようにレオンスが声を上げた為、皆の注目が彼へと移る。
「俺達〔盗賊達の屋形船〕は話し合いの結果、先刻をもって〔ヨルムンガンド同盟〕に加入する事にしたよ」
 日常会話をするかのような様子で『言い忘れていた』と言うにしては、かなり重要な内容であった。
 しかし〔屋形船〕の選択としては意外なものだった為、一行もユベールもヌアークも目を丸くしてしまう。
 特にアシュレイは、何を言っているんだこいつらはと言わんばかりの顔になっていた。
 それら全てを受け止めながら、〔屋形船〕のギルドリーダーとしてレオンスは説明する。
「〔軍〕とは一応敵対に近い関係だったからな。入るのは躊躇っていたんだけど、今は状況が状況だからな。それに〔軍〕の穴は埋められないけど、そのままにもしておけないだろう?」
「そう言えば、あんた達ってまだ〔同盟〕に入ってなかったのね」
 言われて初めてその事に気付いたかのようにアシュレイは返す。無論わざとだ。
 これには意図を読み取れていた彼が苦笑する。
「はは、酷い言いようだな」
「けど、〔盗賊達の屋形船〕に〔君臨する女神〕が居れば、〔軍〕と同等、いえ、それ以上になるでしょうね」
 けれども、続けて彼女がらしくない素直な賞賛を送った為、レオンスは目を丸くするしかなかった。まさか持ち上げられるとは思ってもいなかったのだ。
「君が、俺達を褒めるとは思わなかったな」
「勘違いしないで。あたしは、あくまで事実を述べただけよ」
 ふんとアシュレイは鼻を鳴らしてみせる。だが、これが彼女なりの照れ隠しの一種であると、一行以外の面々もまた何となく気付いていた。

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