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三十六章 崩れゆく柱‐father‐(3)

「僕らの頭上は、ゆっくりと崩壊を始めているんだ」
 フローランはあくまでも落ち着いた様子で、まるで他人事のように語る。
 これから自身に降りかかるであろう事態を許容しているような彼に対し、セレスはかっと頭に血を上らせて叫んでいた。
「だから壁を壊すって言ってるのよ!」
 これには呆れしか出てこないフローランだった。思わず溜息が零れる。
「ここまで言っても解らないなんて、君らしくないね。今日の君はどうかしてるよ」
「そ、それは――」
「君が壁を破壊すれば、その衝撃で一瞬にしてこの空間は崩壊するだろうね。そして僕らも即死だ」
 途端に言葉に詰まった彼女に再認識させるべく指摘を入れてやれば、ここで気付いたらしく息を飲む音が聞こえてきた。続けてフローランは、努めて感情を押し隠しながら別の事実をも突き付けてやる。
「それに、エディはもう助からないよ」
「……っ!」
 セレスが上げた声にならない悲鳴は、周囲一帯に響いたように思えるくらい大きかった。
 ようやく現状を知ると同時に大人しくなった彼女の事は放置して、フローランは腕の中で徐々に暖かさを失っていく少女の髪を優しく撫でたり梳いたりする。
「でも駄目、駄目なの……! それでもあたしは、フローランだけでも助けたいの!」
 それでも強い感情に押されたセレスは再び声を上げていた。
「どうして、そこまでして僕を助けたいの?」
 手を止めてフローランが紡いだのは、何かを確認するかのような声だった。
 これに背中を押されたような形となり、思わずセレスの本音は口を開いて飛び出してしまう。
「だって、あたしは君のことが――」
「知ってたよ」
「!」
 その先を言わせずフローランが珍しく柔らかい声で告げた内容により、セレスは一瞬だけ硬直した。まさか知られているとは、一度たりとも予測しなかったからだ。
 黙ってしまった彼女に満足しながら、彼は口調も声も元の調子に戻した。
「これでも、僕は君よりは恋愛経験が豊富なんだよ? だから、君の僕を見る視線の意味にもすぐに気付けた」
 どことなく茶化すような色合いを含めた声に、再度セレスの頭は沸騰しかける。
「こんな時に何を言ってるのよ!」
「こんな時だからだよ」
 見えない筈なのに、壁の向こう側で相手の顔が強張ったのがフローランには感じ取れた気がした。
「こんな時だからこそ、僕は笑っていられる」
「……どうして」
 間を開けてセレスが返したのは、訳が解らないと全力で叫んでいるかのように困惑した声だった。
 対して、フローランはまるで自分でも解っていないかのように首を傾げてみせた。相手には見えないと知りながらの行為である。
「さあ、どうしてなんだろうね? けど、別に解らなくても良いと思うんだ。だって、僕は『しあわせ』だったんだろうから」
 フローラン・ヴェルヌは、心の底から嬉しそうに笑ってそう言ったのだった。
 セレスには、やはり最後まで彼という人物が理解できそうにはなかった。それでも、理解したかった。
 そうしている間にも、フローランはふと違う事を話したくなっていた。
「ねぇ、セレステ。少し僕の話を聞いてくれないかな?」
「え……?」
 突然すぎる話に戸惑う彼女を置き去りにして、彼は勝手に話し始める。あくまで自己満足でもあったからだ。

「僕はね、北大陸の小さな村の出身だったんだよ。信じられないかもしれないけど、当時の僕は引っ込み事案だったんだ。だけど、僕には引っ張ってくれる人が居たんだ。幼馴染みでも恋人でもあった彼女は、当時の僕にとって唯一の光だったんだよ。だけど、彼女は〈竜神の逆鱗〉で死んでしまった。僕も重傷を負ったんだけど、ヴァンサン・アズナブールに助けられたらしくてね、気が付けばそこは五年後の世界だったんだよ。五年間も、僕は眠り続けていたそうなんだ。そうして出会ったのがエディだった。最初はエディが助けてくれたと思ってたんだ。だって、あの兄妹はそっくりだったんだから。だから、僕はエディに恩返しをしようと決めた。エディも僕に懐いてくれたから一緒に行動するようになって、そうしてる内にエディのことが好きになってたんだ」
 殆ど息継ぎもせず、まるで独り言のようにフローランは自分の事を語っていく。
 そのペースにすっかりと飲まれつつも、セレスは黙って聞いているしかなかった。早く二人を助けなければという思いは未だ強かったが、同時に、もう二人とも助からないのではないかという諦めも同じくらい肥大していたのだ。今の今まで絶対に自分の過去を話そうとはしなかった彼が、現在こうして話している事に驚いてもいたのだが。
「エディのことは大好きだよ。でも、やっぱり、デイファに対する『大好き』とは違うんだ。……デイファは、僕にとっての『唯一』だったから」
 それは切なげな声であり、紛れも無い彼の本音だった。
 フローランからそのような声色が聞けるとは思ってもおらず、セレスは最早かけられる言葉が思い付かなかった。
 彼の方も話はそれで終わりらしく何も言わなくなる。
 そうしてしばらく無言の時間が続いたが、またしても揺れが強くなり始めた事でセレスは我に返る。しかしながら、まだ叫ぶだけの気力は戻ってきていなかった。
「どうして……」
 また彼が自分に過去を話した理由が判らなかった為、発した声は弱々しかった。
 訊かれる事は予想していたようで、フローランは驚いた様子も無い。
「本当に何となく、君にも話しても良いかもしれないって思ったからだよ。それだけじゃ、理由にならないかな?」
 この言葉でセレスは何も言えなくなる。遠回しに自分の気持ちを蹴っておきながら、誤解させるような優しさを見せてくる彼がどこか腹立たしくて、けれどどうやっても嫌いにはなれなさそうだったからだ。
 徐々に振動が強くなっている事に気付いていたフローランは天井を見上げてから、ゆっくりと息を吐き出す。そして彼は彼女へと見えないのを承知で本心から微笑みかけ、別れの挨拶を告げた。 
「じゃあね、セレステ。君と一緒に居るのも……案外、悪くはなかったよ」
「!」
 その言葉でセレスが顔色を変えた瞬間、一気に揺れが増した。それにより彼女の居る場所も危なくなるが、それよりも彼女は、眼前の壁と二人が居るであろう向こう側の空間が崩れ始めた事の方に蒼白になっていた。
「駄目、お願いだから……!」
 しかし悲痛な願いも空しく、彼女の眼前で轟音を立てて空間は崩壊する。呆気無いくらい簡単に火と煙を更に巻き上げながら、彼女を反対側へと追いやって。
「っ……フローラァン!!」
 後方へと吹き飛ばされながらも喉から飛び出した少女の絶叫だけが、その場に響き渡った。彼女はそのまま進路の先にあった瓦礫に背中から激突し、そこでようやく止まる。襲ってくる激痛や朦朧としかける意識と戦いながらも首を動かして視線を持ち上げれば、二人が居たであろう筈の場所は、今や激しく燃え盛る炎の中にあった。誰がどう見ても、助かるとは思えなかった。
「っ……!」
 もう彼らには会えないのだと今度こそ理解すれば、セレスは強い感情の波に攫われていた。十三年前のメイジェルの時程ではなかったが、それでも、大切な相手を失った悲しみの奔流には逆らえる筈も無かったのだ。

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