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三十六章 崩れゆく柱‐father‐(2)

「エディから離れろ」
 元より答えを求めていた訳では無かった為、フローランはそこにはもう触れずに命令する。最早彼の脳内に、クレッソンへの信頼など欠片も残ってはいなかった。元よりエディットが彼を尊敬していたので、彼女の意思を尊重していただけにすぎない。
「良いだろう」
 あくまでも閉鎖的な彼に呆れたような顔をしてみせてから、クレッソンは足をどかした。
 すぐにフローランは駆け寄ろうとしたが、それよりも速く、抜き身のままだった刃が斜めにエディットの心臓部分へと突き立てられていた。
 瞬間、声にならない絶叫が二つ上がる。
 クレッソンが剣を引き抜けば、その勢いにより少女の身体は横へと転がって仰向けになる。
「だが、まさか私が君達二人を殺すつもりでいる事を、忘れていた訳ではないだろう?」
 完全に力を失くしたその肢体を、彼はフローランの方へと蹴り飛ばしてやった。それから刀身に付着した血や肉塊を振り払う。
 その間にもフローランはエディットの許へと駆け寄り、その小さな身体を抱き上げていた。
「エディ! ……エディ!」
 しかし、どう見ても彼女は助かりそうにはなかった。
 故に、フローランは嘘だと内心で叫びながら必死に名を呼ぶしかできない。
 彼の声を耳が捉えていたエディットは緩慢な動作でそちらを向き、ゆっくりと表情を動かしてみせる。死期を悟ったが故の笑みに、フローランは言葉を失うしかなかった。
「フロ……好き……」
 そうして紡がれた言葉と共に弱々しく伸ばされた手は、けれど彼まで届く事は無かった。途中で力を失ったそれは、ゆっくりと落ちていく。
「エディ……!」
 その小さな手をすばやく掴んで握り締めると、フローランは彼女の名を呼んだ。もう届いてはいないのだと理解していても、尚。
 一方、その様子を見ていたクレッソンは、再度わざとらしく呆れ顔になってみせる。
「まさか、ここまで愚かな娘だとは思ってもいなかったな。当時は良い拾い物をしたと思っていたのだが……どうやら、はずれであったようだ」
「……黙ってよ」
 地を這うような低い声がクレッソンへと向けられるが、その程度で動揺するような彼ではない。寧ろ、更に口元を釣り上げた程だ。
「《兵器》は兵器でも、欠陥品で――」
「黙れ!」
 瞬間的に発せられたのは、まるでオーラに対するような――否、それ以上の激情を伴った怒号だった。
 しかし、クレッソンはあくまでも余裕を崩さない。
「私を倒そうとでも言うのか? 戦う力を持たぬ君が、か」
 エディットをそっと優しく床に横たえると、フローランは立ち上がって彼女の盾になるかのように移動し、そしてクレッソンと対峙した。憎悪に満ちた眼は猛禽類の如く鋭く尖って、眼前の敵へと向けられている。
「ああ、そうだよ」
 肯定しながら、フローランは左足に巻いているベルトから短剣を引き抜いた。念の為だとして所持しておきながら、今の今まで一度も使用した事の無かった武器だった。
 これを見たクレッソンは、面白いと言わんばかりに笑みを深める。
「ならば、遠慮無くかかってくると良いだろう」
 その言葉を聞き終えるよりも速く、フローランは短剣を構え、十年ぶりくらいに雄叫びを上げながら相手へと飛びかかっていた。ほぼ本能に任せた行動だった為、細かい事を考える余裕は無かった。
 だが、案の定フローランはクレッソンに及ぶ事はおろか、一矢報いる事すらできなかった。奇しくも彼女と同じように体重を乗せた刺突は難無くかわされ、そうしてできた隙に心臓部を切り裂かれる。その勢いに負けた彼は短剣を手放し、尻餅を付くようにして後方へと座り込んでしまった。
 クレッソンは次いでその片足も同様に斬って動きを封じ、彼を見下ろしながら剣を鞘へと納める。
「やはり、アズナブール氏よりも呆気無かったか。だが、愛しい少女と同じ死に様になれた事、そしてまだ僅かながらに猶予が残されている事に感謝すると良い」

 暗に手加減してやったのだと告げる彼を無視して、フローランは何とか再び攻撃しようと、横側に転がっている短剣に手を伸ばしていた。身体を少しでも動かす度に胸部の傷が痛んで血が滴り落ち、身体はろくに動かせなかったが、怒りに支配されている彼にはどうでも良い事だった。
 それに気付いていたクレッソンは短剣を更に遠方へと蹴飛ばしながらも、相手の執念に内心では若干舌を巻いていた。そうして彼を侮っていた事を知り、念の為もう一押し講じておこうと決める。
「どうやら、潮時のようだな」
 そう呟くと、彼は懐から爆弾を取り出した。以前セレスに命令して作らせた、大きさの割には火力が高く範囲も広い物だ。ただしその分、使い手をも巻き込みやすい代物でもあったのだが。
 それに気付いたフローランは、慌てて現状持てる全ての力を使ってエディットを抱き上げ、そのまま何とか移動しようとする。しかし相変わらず、斬られた足は少しも動いてはくれなかった。
「ではさらばだ、愚か者達よ」
 そんな彼を嘲笑ってから、クレッソンは堂々と扉から出ていった。
 それを見送る事しかできない自分に歯痒さを覚えながらも、フローランは少女を抱き締めたまま移動しようと、足掻く事しかできなかった。けれども足が使えない為、徐々にしか動けない。
 そうしている間にも、やがて激しい揺れと轟音に襲われた為、反射的にフローランは腕の中の少女を抱き締めて目を瞑った。それが治まれば、今度は熱さを感じたので目を開けたところ、辺りの様子は一変していた。
 きっちりと整理されて色合いも家具も統一されていた《団長》の執務室は、爆発により天井や壁が崩れ、所々が燃えており、見るも無残な姿となっていたのだ。扉もまた瓦礫に閉ざされた上、炎に包まれてもいた。二人の居る場所にはかろうじて瓦礫も炎も無かったが、いずれは天井も床も壁も全てが崩れ落ち、火が全てを覆い尽くす事は誰の目にも明らかだった。しかも、逃げ出せそうな隙間はどこにも見当たらない。
 この状況が先程の爆弾を使ったクレッソンによるものだと、フローランはすぐ気付けた。この〔騎士団〕本部諸共、自分達を始末しようとしている事にも。
「どの道、この怪我だとどこにも行けない、か」
 持ち上げてみた左手はひどく痺れており、もう思うように動かせる気はしなかった。
「……デイファ、やっぱり僕は、大切なものは一つも護れなかったよ」
 現状を悟った彼は天を仰ぎ、既に亡き大切な最初の少女へと、謝罪にも似た報告を呟く。その脳裏には、彼女の姿が思い浮かんでいたのだ。
「あの日、君を助けられなかった僕は、エディのことも護れなかったんだ……結局、何一つ約束を守れなくてごめん、デイファ……!」
 今にも崩壊しそうな空間に、青年の慟哭だけが木霊する。
「――フローラン! エディット!」
 そこに飛び込んできたのは、焦燥が前面に出ている聞き慣れた声だった。どうやら、フローランが背を預けている壁の向こう側から聞こえてきているらしい。そして、それが誰のものかなど、彼には一発で解ってしまっていた。
「……セレス? いつもと呼称が違わないかな?」
 それによりポーカーフェイスが感傷的な気分を押しのけて前に飛び出した為、フローランはすぐに自分でも驚くくらい普段通りの声が出せていた。それ故、つい気になったそこを指摘してしまう。
 一方、戻ってきてみれば本部が火の海となっていた事に驚き、慌てて生存者を捜していたセレスは、研ぎ澄ませた耳が何とか声を拾ってくれた事で、ようやくフローランを発見できていた。また、彼と一緒にエディットも居るだろうと思っていた為、すっかり二人を見付けた気でいた。それでも、嫌な予感が現実のものとなってしまっていた事には焦っていた。同時に、これが自分の作った爆弾によるものである事にも気付いていた為、尚更だったのだ。
 この為、彼女は眼前の壁に両手を付いたまま叫ぶ。
「そんなことを言ってる場合じゃない! 待ってて、今この壁を――」
「今」
 静かながら圧力を伴った声に、一言ながらセレスは思わず口を噤んでしまう。
 喉の奥から血が逆流してきている事を自覚しながらも、フローランは億尾にも出さずに続ける。視線を動かせば、頭上に残っていた天井から、ぱらぱらと細かな瓦礫が零れ落ちてきていた。

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