The Quest of Means∞
‐サークルの世界‐
三十六章 崩れゆく柱‐father‐(1)
エディット・アズナブールは、物心もついていないような頃に両親を亡くしていた。父イェンサンは〔陽光騎士団〕――〔月夜騎士団〕の前身の《団長》だったが、詳細は知らないものの、不祥事を起こして更迭されたらしい。そして当時《副団長》だったクレッソンが《団長》となり、ギルド名も現在のものに変更された。そして彼女が六歳の時に、父は〈軍団戦争〉で戦死し、その報せを聞いた母ユディットは発狂死したそうだ。兄ヴァンサンも十年前に家を出ていたので、彼女は天涯孤独の身となってしまったが、糸使いの一族として特筆した技術を買われ、クレッソンに拾われたのだ。
だからこそ、エディットは今こうして〔月夜騎士団〕に居る訳である。父の件を知る者達に陰口を叩かれた事もあったが、殆ど覚えていなくとも自分をこの世に生み落してくれた両親のことは好いているので、気にした事はなかった。なぜならば、そのおかげでフローランと出会えたからである。扶養者にもなってくれたクレッソンのことは尊敬しているので、彼に命じられる内容をこなす事に疑問など覚えなかった。そこには物事を教わる前に両親が他界してしまった事、そして彼女がまだ幼い事もあったのだが、ともかく当の本人は、自らが手を染めている内容を疑おうとも思わなかったのだ。
だが、それは今崩されようとしていた。おそらくは扉の隙間から滑り込ませたのであろう、自室に密かに忍ばされていた送り主の解らぬ手紙によって。そこには見知らぬ字で、こう記されていたのだ。貴女の御両親を謀殺したのは他ならぬスタニスラフ・クレッソンだ、と。
無論、エディットはそれをアンティガ派の残党が仕組んだ戯言だとしか思わなかった。けれども、どうしてか心の奥底には引っかかってしまったのだ。しばらく放置していれば忘れるかとも思ったが、寧ろ、生じてしまった疑念はむくむくと成長するだけだった。このままにしておけば厄介な事になるかもしれない、と彼女は考える。
故にエディットは、一行がセレスと別れていた頃、時を同じくして《団長》の執務室を訪ねていたのだった。
「入りたまえ」
二回程ノックをすれば許可を出す声が飛ばされてきて、エディットはそっと扉を開けて中に入る。
クレッソンは椅子に腰かけ、書類に目を通していた。
「……《団長》」
「どうしたと言うのだ、アズナブール氏?」
思わず名を呼べば、彼はいつもの調子で問うてきた。その事に安堵する反面で不安も覚えながらも、エディットは机の前まで行く。そこに置かれている彼女専用の台に乗って高さを調節してから、本題へと入った。
「……質問、許可」
「構わない。何を訊きたいと言うのだ?」
普通ならばおおよそ理解には及びにくいエディットの口調も、保護者代わりであるクレッソンには容易く解読できた。故にフローランが居なくとも、この二人の間では会話はスムーズに進行する。とは言っても、彼女の言葉を比較的すぐに理解できる者は、他にも居るのだが。
許可を受けたエディットは、右手に下げていた封筒を持ち上げて差し出す。
「……先程、発見」
それを受け取ると、クレッソンは中の便箋を取り出し、その内容に目を通した。
「……なるほど、おそらくはアスロウム氏の仕業、と言うべきなのだろうな」
「……同意」
そのまま紡がれた声に、エディットはこくりと頷く。セレスの字を見た事は無かったが、つい先程彼女が自分達をも裏切っていた事は聞かされていたので、彼女の仕業ならば納得できると思っていたからだ。
「しかし、随分と気付くまでに時間がかかったものだな、アズナブール氏」
けれども、クレッソンの反応はエディットの期待したものとは異なっていた。それは彼女が胸の内に抱えている不安を払拭してくれるようなものではなく、寧ろ膨張させるような笑みと声だった。
「……《団長》?」
思わず再度名を呼ぶも、今度は応えが返ってこなかった。
「成長する度に母親に瓜二つになっていく少女を視界に入れるのが、あの日の殺意と苛立ちを思い起こさせるので、辛く感じていたところなのだ。誰の仕業かはひとまず置いておくとして、現状は好機と呼ぶべきなのだろうな」
まるで手紙の差出人が最初から判っていたかのように、クレッソンは自らの斜め後ろへと視線を寄越す。そこには、今は誰も居なかった。
「だが、この状況はまるで『母親』の時と同じだ。これもまた、『運命』と言い表すべきなのだろうか」
自らの脳内を知るクレッソンは、一人楽しげに嗤う。
しかし、エディットには訳が解る筈も無かった――否、思い浮かんだものを信じたくなどなかった。脳内で起こっていた混乱も治まる様子は無く、強い警鐘が鳴らされてもいる。
「……説明、要求……」
それでも彼女は勇気を振り絞った。その結果、今まで信じてきたものが、呆気無く瓦解してしまうとも知らずに。
「何、簡単な事だ。イェンサン・アズナブールを殺したのは、他でもない私だという事だよ。その事に気付いたユディット・アズナブールが私を襲撃してきた為、彼女もまた夫の許に送ってさしあげただけだ」
「――っ!」
その事実と小馬鹿にしたような声を耳が捉えた瞬間、遂に脳内が真っ白になったエディットは、声も上げずにクレッソンへと向けて飛びかかっていた。同時に両方の袖から出現した糸は、鋭利な刃の如くぴんと伸びた状態で至近距離の敵へと振りかぶられる。
だが、それが相手に当たる事は無かった。なぜなら彼は驚異的とも言える速度で、その射程圏内のすぐ外へと移動していたのだから。身体の重みも乗せたエディットの一度限りとも言える最大級の攻撃は、椅子を破壊するだけに留まってしまったのだ。
この隙に、クレッソンは抜刀した勢いでエディットの脇腹辺りを一閃、そこを深々と切り裂いていた。血飛沫と共に、抉られた肉の一部が飛ぶ。
「っ……!」
今までの経験とは比べものにならない激痛に襲われ、声にはならない悲鳴を上げながら、エディットは吹き飛ぶようにして机の向こう側へと倒れ込んだ。
そんな彼女の傍まで行くと、クレッソンは見下ろして容赦無くその傷口を踏み付ける。
「――っ!」
途端に痛みが強さを増し、エディットはまたしても悲鳴を上げた。
薄らと笑みすら浮かべて、クレッソンは足をそこに足を置いたまま彼女を見下ろしている。
「《殺戮兵器》などと呼ばれてはいるが、そのように感情に任せた特攻を仕かけるとは、やはり君も人間だったという事だな。ああ。ヴェルヌ氏に関する事項についても、元から君は感情的であったか」
解っていて、あえて言っているような声だった。
けれども、痛覚を刺激されているエディットはそちらにばかり意識が向いてしまい、相手の声もまともに届いてはいなかった。抵抗したくとも身体は思い通りになってくれず、ただ相手にされるがままとなってしまっている。反射的に思い浮かんだのは、彼の顔だった。
「フ、ロ……!」
「――エディ!」
縋るように呼んだ名には、予想外に応える声があった。思わずエディットが視線を足の方へと動かせば、ぼやけ始めている視界の中に見知った姿が見えた。
「おや、君の王子様が来てしまったか。どのようにして知り得たのかは気にかかるところではあるが、思っていたよりは早かったな」
扉が開け放たれる音により、クレッソンもまた部屋の出入口の方を見る。
そこには、全力疾走をしてきたらしく、息をきらしながら扉の枠を掴むフローランが立っていた。その瞼は押し上げられ、珍しく彼の目を露わにしていた。
「……《団長》、これはどういう事なのかな?」
上司を睨み付けるその目も顔も、一遍たりとも普段のように笑ってなどいなかった。
「最後まで隠し通せるとは思っていなかったからな、君達二人が歯向かうようならば、始末しておこうと思っていたのだよ。私は従ってくれぬ駒など必要としてはいないのでな」
最早隠す必要も無かった為、クレッソンは堂々と告げてやる。