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三十六章 崩れゆく柱‐father‐(13)

 しかし、ニールソンが表情を崩す事は無い。
「うん、勿論やるよ。そう言うあっちゃんこそ、ちゃんと状況は解ってるよね?」
 わざとらしく人質達の方へと視線を移しながら、現状における自身の優位を示してみせる彼に、一行はやはり動けそうにはなかった。
 そうなれば、ニールソンは楽しそうな笑い声を上げる。
「あはは、打つ手無しだね~」
 彼がそう言った瞬間、影からケルベロスのものと思しき足や手が飛び出してくる。それらは前線に居たアクセル達三人へと襲いかかった。
 現状では埒が明かないと踏んだ彼らはそれを避け、一旦〈結界〉内まで下がる。
「さーてと、どうやって料理しようかな~」
 すっかり勝った気分になったニールソンは、子どものように両足をばたばた動かして机を軽く蹴りながら、防戦一方となってしまった一行を眺める。
 そちらから視線を外さず、意図してターヤの傍まで下がっていたアシュレイは彼女へと声をかける。
「あたしがあいつの気を引くわ。その間にお願い、あたしの代わりに、あいつを止めてほしいの」
「うん、解った」
 同様にそちらを見ないよう気を付けながら、彼女の意思を汲み取ったターヤは即答していた。それから、杖を握り締めている両手に力を込める。詠唱は、まだ行わない。
 その間に、アシュレイは再び〈結界〉の外へと出ていった。
 彼女達のやり取りを聞いていた一行はその場に留まり、なす術など無いかのように振る舞う。
「ニール、あんたにずっと言いたかった事があるの」
 一人出てきたアシュレイを見て訝しげな顔になるニールソンへと、彼女は落ち着いた声をかけていた。これにより益々彼の表情が不審げになるが、構わず彼女は口を開く。
「あの時は不信感もまだあって、それで結局言う機会を逃しちゃったから、〈軍団戦争〉の時に助けてもらった礼を、ちゃんと伝えておこうと思ったのよ」
「随分と今更だよね、それ」
 告げられた内容には、呆れたようにニールソンが息を吐き出す。
 けれども、アシュレイは額に青筋を浮かべる事も眉を顰める事も無く、ただ穏やかになった表情で真っすぐ彼を見ていた。
「今更だから言うのよ。……あの時、あたしを助けてくれて、親代わりになってくれて、全部じゃないけど、生きる意味を与えてくれて、心の支えになってくれて、本当にありがとう」
 そうして両頬を綻ばせる。彼女にしては珍しく柔らかい笑みだった。
 これにはニールソンでさえも見慣れていなかったのか、思わず目を丸くしてしまっている。
「大好きよ、お父さん」
「っ――!」
 駄目押しとばかりにアシュレイがその笑顔のままそう言った瞬間、ニールソンの口から声にならない悲鳴が飛び出した。同時に両目が完全に見開かれる。
 一行もまた驚きを露わにしていた。相手の気を引く為だと言っておきながら、彼女は明らかに、今まで言えずにいた言葉をようやく相手へと伝えているだけなのだから。紛れも無い本音を、ただ素直なままに、曝け出しているだけなのだから。
「『Luce della Genesi』――」
 この隙にターヤは詠唱を開始する。
 そちらに目敏く気付いたケルベロスの首は、人質にとっている軍人や魔物の首を噛み千切ろうとするが、本体となっているニールソンの精神が混乱状態になっている為か、思うように動けなくなっているようだった。
 無粋な獣に邪魔させないようにするべく、アシュレイは必死な顔となって言葉を紡ぐ。
「大好きよ、大好きなの、ニール。だからお願い、もうこんな事は止めて。お願いだから、あたしの知ってるニールに戻ってよ……!」
 彼女はもう、ただ父親に正気に戻ってほしいと切に願う娘でしかなかった。
 その悲痛な想いに気付いているからこそ、残りの面々は気を抜かずに相手の出方を窺う。何としてでも、ターヤの詠唱を邪魔させる訳にはいかなかったのだ。

 千載一遇とも言えそうな好機を崩されそうになっているケルベロスは狂ったように声を上げるが、負けじとアシュレイもまた叫んでいた。
「あたしを、一人にしないでよ……!」
 無意識に選んだその言葉は、奇しくも〈軍団戦争〉の際にアシュレイが妹ディオンヌの亡骸にかけた声と同じだった。そして、ニールソンが彼女を引き取る事を決める、きっかけになった言葉でもあった。
 瞬間、彼の瞳が更に揺れ動き、そこに僅かな光が宿る。
「……アシュ、レイ……?」
「――〈無限光〉!」
 ニールソンの口から掠れたような声が零れ落ちたのと、ターヤの魔術が発動したのは同時だった。
 その直後、執務室全体が眩い光に包まれる。
 それは外へと漏れ出て尚強烈さを保っており、街中で魔物と動物の解放を終えていたユベールや〔屋形船〕、ヌアークが思わずそちらに意識を奪われてしまう程だった。
 アシュレイは反射的に彼の名を呼びかけて、しかし寸でのところで飲み込む。
「ぎゃぁぁぁぁぁ!!」
 どちらのものなのかも判らない悲鳴が空間いっぱいに響き渡る中、ターヤは決して目を逸らさずにいた。それが義務だと思っていた。
 やがて光が収まれば、ニールソンの周囲と前方に広がっていた影は、通常の大きさに戻っていた。そこから飛び出していたケルベロスの首は一つも見当たらず、闇魔の気配はすっかりと小さくなってしまっている。そして影が広がっていた筈の場所には、数人の軍人と動物と魔物が一匹ずつ、気を失った様子で倒れていただけだ。
 ケルベロスを倒せたのだと知れば、思わずターヤは安堵の息を吐き出していた。
 オーラもまた〈結界〉を解き、皆は武器を下げる。
 ニールソン自身は机上に腰かけたまま顔を俯けていたが、ゆっくりと体勢を傾かせたかと思えば、斜め前方向へと倒れていく。
 弾かれるようにアシュレイは動きかけるも、やはりその場に留まる事を選択した。念の為、様子を窺った方が良いという軍人として培ってきた勘からだった。
 あくまで頑なに覚悟を押し通そうとする彼女を、マンスやオーラは悲しげな顔で見ていた。
 そのままニールソンは床へと落下して、左肩を下にするように倒れ込み、更に傾いて仰向けとなる。微塵も光沢が無い漆黒だった瞳と髪は、今や赤色に変化していた。その目が何かを探し求めるかのように動き、そうしてアシュレイを捉える。
「アシュ、レイ……?」
「……ニールっ!」
 掠れた声で名を呼ばれた瞬間、流石に我慢の限界が近かった彼女は、弾かれるようにしてニールソンの許へと駆け寄り、彼を抱き上げていた。彼が正気に戻っている事は先程から解ってはいた為、張っていた虚勢など既に崩れてしまっていたのだ。
 闇魔とほぼ同化していた彼の身体は、さながら砂の城のようにさらさらと端から崩れ、どこかへと運ばれている。誰がどう見ても、侵食していた闇魔と同じく宿主も助からない事は明白だった。
 その光景を、彼女以外の面々は黙ってみていた。
 特にとどめを差したターヤは、仕方の無かった事だとは言え、罪悪感で胸中をいっぱいにしてもいた。もしや他に何か方法があったのではないか、とも思ってしまった程だ。
「ごめんなさい、ニール、あたし、本当は、助けられるなら助けたかった……!」
 張り詰めていた緊張の糸が切れてしまったアシュレイは、子どもの如く縋るように彼を抱き締めながら、素直に後悔の言葉を紡ぐ。しかし、そのせいか喉で閊えてしまうらしく、言葉は途切れ途切れになっていた。
 そんな彼女へと、彼はゆっくり笑みを浮かべてみせる。そっと伸ばされた手は、その頬へと届いていた。まるで安心させようとするかのような動作だった。
「君が、居てくれて、良かった……ありがとう、僕の……むす、め……」
 それが彼の最初で最後の素で、そして最期の言葉でもあった。その腕が力を失って、ずるりと滑り落ちていく。

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