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三十四章 毒龍と大鷲‐antagonism‐(9)

 だが、今のメイジェルの瞳には、既に黒い龍と成り果てた『人間であったもの』しか映ってはいなかった。彼女には、それがウィラードにしか見えていなかった。
「くそっ……!」
 悪態をついて、今度こそアクセルは実力行使をすべく飛び出していた。
 遅れてレオンスとアシュレイも動く。
 スラヴィはとうの昔に自らを覆うように〈結界〉を構築しており、ターヤとマンスもその内部に居た。
「〈睡眠付加〉」
 しかし、誰かがメイジェルの許に到達するよりも早く、オーラは魔術を使って彼女を眠らせようとしていた。
「っ……!」
 それでもメイジェルが簡単に昏倒する事は無かった。彼女は必死になって意識を失わないようにしようと抗う。
 けれどもオーラの行動を目にして、ターヤは決心を固める事ができた。
「オーラは、メイジェルの治療をお願い」
 そう言いながら、彼女は一歩前へと踏み出す。無論〈結界〉から出る事はしない。落ち着いた声色を聞いて驚いたように皆が彼女を見るが、当の本人の意識は既に《毒龍ニーズヘッグ》だけに向けられていた。
「了解しました」
 彼女の意図を察したオーラは首肯で了承の意を見せ、今度こそメイジェルへと近付いていく。
「何を、するつもりなの……?」
 逆にメイジェルは、その決意に彩られた表情から何かを読み取ったのか、一気に不安の籠った顔付きや声色となる。
 ターヤは答えようとメイジェルを見て、しかしできる筈も無かった。故に目は逸らさないまでも、申し訳ない気持ちに押されて謝る事になってしまう。
「……ごめん、メイジェル。後で好きなだけ恨んでくれて、罵倒してくれて構わないから……だから!」
 右手に掴んでいた杖を持ち上げ、その先端を前方の闇魔へと向ける。
「わたしは、ウィラードを助ける」
 その動作にも瞳にも、もう迷いの色は無かった。


 ほぼ同時刻、男性は微睡みから浮上した。まず目に付いたのは、無論知らない天井だった。ゆっくりと持ち上げてみた腕に包帯が巻いてあり、身体には布団をかけられているところから、誰かに助けられて介抱されたのか、とおおよその現状を把握する。
 次に、自身の事を思い出してみる。パウル・アンティガ、〔月夜騎士団〕の《副団長》であったが、重用していた部下に裏切られて崖から突き落とされた。そこまで思い返したところで強い憤りを感じたが、今はまだ抑制しておく。
「ここは――っ!?」
 ひとまずは場所を確認するべく身体を起こそうと思ったが、激痛に襲われて断念する。仕方なく首を横に倒すだけに留めたところで、きい、と音を立ててそこにあった扉が開かれた。そこから入ってきたのは見覚えのある女性で、思わず両目を見開いてしまったアンティガへと彼女は声をかけてくる。
「久しぶり、と言った方が良い?」
「貴様は、小娘……!」
 思わず驚愕の色が混ざった声を上げてしまう。
 それは、以前アンティガともう一人が利用していた少女であった。否、十年の歳月が経過した現在では、女性と呼び表す方が相応しいだろう。とにもかくにも、彼とは少なからず関係のある人物なのである。
「エル。何度教えたら覚えられる?」
 呆れたように言われ、アンティガは眉根を寄せる。彼女の名前など心底どうでも良かったからだ。

 エルもまた彼という人物はおおよそ理解している為、すぐに話題を変える。
「それにしても無様な格好。高を括ってた? ガルシア」
「……その名で呼ぶでない」
 昔使っていた名で呼ばれた上に挑発めいた声まで向けられた為、途端にアンティガは――ブロンソン・ガルシアは、益々眉根を寄せて苦虫を噛み潰したかのような顔となる。その名は、とうに過去と共に捨てたものであるからだ。
 予想通りの反応に、彼は変わっていないのだとエルは感じた。
「これまでの事は覚えてる?」
 そうと解れば無駄な話は止め、直球に変更する。
 するとアンティガは即座に顔色を変化させた。そこに浮かび上がったのは、紛れも無い激怒と憎悪。
「! そうだ、アスロウム! あの小娘め……! あの若造の部下であったとは……吾輩を騙しおって……!」
 ぎりぎりと噛み合わせた歯の間から不穏な音を鳴らしながら、アンティガは自らを裏切っていた部下への憤りを言葉にして吐き出す。しかし床に伏している状態の為、まるで聞き分けの悪い子どもが我侭を口にしているようだ。
 そんな様子を見て、そして騙される方が悪いなどとのたまっていた過去の彼を思い出し、エルは再び呆れ顔になる。
「その『小娘』に、おまえは助けられた事に気付いてる?」
 遠回しながらも割とはっきり告げてやれば、アンティガの眼がエルへと突き刺すかのように向けられた。
「……何が言いたい」
「あたしは、おまえを助けるよう彼女に頼まれた」
 構わず事実を突き付けてやった瞬間、相手の顔色は一変した。
「! 何、だと……!?」
「信じられないのなら、今まで交わしてきた手紙でも見る?」
 そう言って懐から手紙の束を取り出してみせたエルの様子で、途端にアンティガは気まずさを覚えた気がした。何と言い返せば良いのか解らなくなり、結局は口を閉ざしてしまう。
 それはつまり、セレスはクレッソンに対する反逆行為を働いたのと同義という事だ。しかも、上司に命じられたであろうアンティガの暗殺を実行する振りで彼を欺こうとしたどころか、あまつさえ助かるようにとエルに働きかけて。
「補足しておくなら、あたしと彼女は別に知人でもない。今回初めて声をかけられた」
 アンティガの表情からだいたいの思考を察し、エルは補足を入れておいた。これも十年間に培った技術だ。
 そうすれば、尚いっそうアンティガの表情が複雑なものと化していく。
 ようやく事態を把握して後悔らしきものを僅かに見せた彼を目にし、少しは変われたのかもしれないとエルは思った。それでも、つい昔の癖で皮肉を向けてしまう。
「自らの危険を承知の上でおまえを助けようとした彼女に、せいぜいそこで感謝してれば良い」
「……貴様にも、一応は感謝しておいてやろう」
 そう言い捨ててから、何か飲物でも持ってきてやろうかと踵を返したエルだったが、思ってもいなかった言葉に振り向いてしまう。その時には既にアンティガは彼女に背を向けるようにして寝返りをうっていたが、仏頂面が少しでも緩んだ為に見られたくないのだろう、とエルは何となく気付いていた。それから彼に配慮して、すぐに部屋を出ていく。
 少ししてから水を入れたコップを持ってきたエルへと、アンティガは彼らしくない躊躇うような様子で問いかける。
「だが、貴様はなぜ……アスロウムに協力などしたのだ?」
 ひどく戸惑っている声だった。
 幾ら過去に同じギルドに属していたとは言え、アンティガ――ガルシアとエルの仲は険悪と言えば険悪であった。彼は彼女を毛嫌いし、彼女もまた彼を良くは思っていなかったのだから。

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