The Quest of Means∞
‐サークルの世界‐
三十四章 毒龍と大鷲‐antagonism‐(10)
アンティガが横たわるベッドの傍に設置されたサイドテーブルにコップを置いてから、エルは彼の疑問に答え始める。
「確かに、あたしもおまえの立場だったらそう思う」
ならばなぜと男性が言葉を紡ぐよりも早く、女性はズボンのポケットに手を入れた。
「けど、あたしはおまえに返す物があった」
だからセレスに協力したのだと言わんばかりの声と共に取り出されたのは、布に包まれた一つのサングラスであった。
そしてそれを目にした瞬間、アンティガはとある一つの記憶を思い起こされていた。
それは、自身の生きる意味を見失いかけていた少女に、自身の予備のサングラスを渡した記憶。自分同様プライドの高い彼女に、泣くのならばそれで顔を隠せと言わんばかりに突き付けた記憶。
「まだ、持っておったのか」
何となく、本当に何となく、その事を思い出した現在になって、ようやく自らがそれを彼女に渡した意味に気付けたアンティガは、視線を逸らして苦々しい顔となる。気恥ずかしいというよりは気まずかったのだ。
対して、エルはここで初めて頬を僅かに綻ばせた。虚を突かれたような顔となった相手には構わずに応える。
「おまえが初めてあたしを気遣ってくれた象徴だから、嫌でも捨てられなかった」
「……理解に苦しむわ」
まるで照れ隠しの如く再び寝返りをうって背を向けてきた男性に、女性は困ったような笑みを浮かべた。
「おまえらしい」
結局、それ以降アンティガが皮肉や怒りなどを口にする事は無かった。
「ター、ヤ……?」
ターヤが行った宣言により、メイジェルの表情は信じられないと言いたげな、引きつった笑みとなっていた。
「『Luce della Genesi』――」
痛む胸は無視しながら一旦彼女のことを視界の外へと追いやり、ターヤは詠唱を開始する。
そこでようやく《世界樹の神子》の存在にでも気付いたのか、ニーズヘッグの眼がターヤへと向けられた。その眼が僅かながらに見開かれ、その爪が標的を変更する。
それを阻止せんとアクセルは抜刀し、ニーズヘッグ目がけて駆け出した。
アシュレイもまた相手を撹乱する為に同じ方向へと向かっており、レオンスはメイジェルが気にかかったものの、オーラに任せて遅れてついていく。
スラヴィは〈結界〉の維持だけに集中し、マンスは足止めくらいにはなればと召喚魔術の詠唱を始めていた。
(これは……随分と酷い傷ですね)
そしてオーラは、殆ど抱えるようにしてメイジェルを離れた場所に避難させ、その腹部の大穴を塞ぐべく治癒魔術をかけていた。しかし傷が傷だけに、幾ら無詠唱とは言っても何度もかけなければならなさそうだった為、時間はかかりそうだった。
幸い、メイジェルはここにきて激痛が追い付いてきたのか、ニーズヘッグに手を伸ばしつつも立ち上がる事はままならない様子だ。ひとまずは邪魔される事も無いだろう。
(流石にフレーズヴェルグの宿主だけあって、ニーズヘッグの毒が殆ど無効化されていた事は幸いでした。出血も酷いですが、この分ならば命に別状は無いでしょう)
その間にも、黒龍と調停者がぶつかっていた。仲間達が相手の注意を引き付けた隙に、彼は大剣で黒龍に傷を付けていく。
腕の中のメイジェルが震えるが、オーラは見て見ぬ振りをした。
(ですが……ターヤさん、貴女の選択は、一つの絆を失ってしまうでしょう。……とうにその覚悟は、できていらっしゃるのでしょうが)
視線を向けた先では、少女が目を瞑って真剣な様子で詠唱を紡いでいる。
「――『II Tsudoe qui ora』――」
周囲の事は皆に任せて詠唱だけに集中しながら、ターヤは少しだけ後悔していた。今から自分が行おうとしているのは、すなわちウィラードを殺す事に他ならないからだ。それはつまり、メイジェルとの間にできた溝は二度と修復できないという事で。
(……それでも、《世界樹の神子》としても、ターヤとしてもこのままになんかしておけないから、だから!)
ぎゅっと更に強く目を瞑り、自らが行っているのだと示すかのように声を張り上げる。
「――『La lucentezza della purificazione fresco e chiaro』――」
少女による決死の詠唱が続く中、前方でも同じく決死の攻防が繰り広げられていた。空中ではアシュレイ、地上ではレオンスが適切な距離を保ちながら不規則に動き回ってニーズヘッグの注意を引き付ける、または撹乱しようとし、そうしてできた隙にアクセルが攻撃を叩き込むという戦法だ。相手は巨体且つ上級でも飛び抜けた闇魔である為、一撃で倒せるとは最初から思ってもいない。
けれども、相手は上級闇魔の中でも上位に立つ存在。流石に一筋縄ではいかず、いっせいに攻撃されたので全員が回避せざるえない状況、あるいはアクセルが攻撃を当てる前に気付かれて失敗となる状況の方が多かった。また、ニーズヘッグが触れるもの全てを蝕む毒を有していると知る面々は、相手の攻撃にはいっさい触れないよう強く気を張ってもいた。故に、アクセルの攻撃が届いた回数は指で数えられる程でしかない。
幸いな事に、ターヤへの注意はほぼ完全に逸らせていたが。
「きりがないわね……獣化するわ!」
一向に拉致の明かない現状に舌打ちを零して一方的に宣言するや否や、アシュレイはマフデトへと化した。そうして再び撹乱を開始すれば、先程よりも効果はあるようだった。
それでも、やはり事態に大した進展は見受けられない。
これにより少なからず皆の中に焦りが生じ、アシュレイは後方をすばやく一瞥した。
「――『Lampeggia I’oscurita e il male』――」
その先に居る少女の詠唱が戦場に響き渡る中、一足先にマンスの詠唱が完成していた。
「――〈土精霊〉!」
瞬間、少年の頭上に巨大な土竜が姿を顕す。
術者はすぐさま制限の解放へと移ったが、既に声無き命が下されていたかのように《土精霊》はニーズヘッグの足元の地面を操った。
唐突に陥没、並びにせり上がってきた岩に両脚を固定された黒龍は解放されようと暴れる。しかし、がっちりとその脚を捕らえた岩はびくともしなかった。
一瞬回避するべく飛び上がるのではと予測した皆だったが、依然として黒龍にその翼を羽ばたかせて宙へと動く様子は無い。ただでさえ強靭且つ強力な龍に飛ばれるとなると実に厄介なので、理由がどうであれ一行にとってはありがたかった。
『こいつ、どうも翼を怪我してるみたいね』
撹乱の役目も無くなったのでレオンスの許まで移動したアシュレイは、その鋭き眼で相手が翼を使わない理由をすぐに見抜く。
その声を耳にしながら、アクセルは今度こそ攻撃を当てるべくニーズヘッグへと向かっていった。狙うはその硬い脚ではなく、鍛える事のできない目か、首だ。卑怯かとも思ったが、攻撃が当たれないように気を配りながら強大な相手を無力化するには、そこを狙うしかなさそうだったからだ。
一瞬、メイジェルの方が気になり、そしてエマの姿が思い浮かぶ。
「っ……!」
しかし速度は落とさず、それら全てを外へと振り払う。元は闘いとは無縁な人種であるターヤが自ら茨の道を選んだというのに、幼少期からそのような事態も起こりうると教え込まれていた自分が、恐れていては駄目だと思ったからだ。
(闇魔を倒すのは、俺の仕事だ!)
あんな少女に背負わせてたまるかと、アクセルは気合いを先程よりも入れ直す。そのまま瞬時に横まで来たマフデトに飛び乗り、ニーズヘッグの顔と同じ位置まで連れていってもらうや、そこから思いきり跳躍して大剣を振るう。狙うは、首。最早、彼は一閃で終わらせるつもりであった。
僅か数秒で自らの命を奪える位置まで肉薄してきた相手に黒龍は虚を突かれ、一瞬対応が遅れる。
とった、とアクセルは思った。同時に、安堵と苦い思いとを覚えながら。