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三十四章 毒龍と大鷲‐antagonism‐(6)

 それは、巨大な一匹の龍だった。その全身はどこまでも黒く、闇の色故に光沢はただの一つとして存在しない。かの龍が纏う雰囲気は実に毒々しく禍々しい、底冷えするようなものであった。
「「!」」
「しかも《毒龍ニーズヘッグ》なのかよ……!」
 その場にいたほぼ全員が再び強い驚愕に両目を大きく見開き、そしてアクセルは僅かに血の気を失くしながらその名を口にした。
「ウィラード、くん?」
 何が起こったのか判らないと言いたげに間の抜けた顔で黒龍を見上げながら、メイジェルは彼であったものの名を震える声で口にした。けれど応える声は無く、それが益々彼女の不安を増長させていく。
 片や、一行はアクセルが零した名こそ知らなかったものの、眼前の黒龍が闇魔であり、上級であろう事だけは感覚で察していた。それくらい、相手から感じられる悪寒と緊張は強かったのである。
 そして察しの良い面々は、クレッソンがメイジェルに吹き込んだのがターヤの正体であり、彼女はウィラードが闇魔であると知っていたのではないかと気付く。
「オーラ、あれ……あの闇魔って……?」
 眼前から目は離せなかったが、普段の癖でターヤはオーラへと問うていた。
「かの黒龍は《毒龍ニーズヘッグ》……既に御察しかとは思われますが、上級闇魔の中でも特に力を有した存在です。その名の通り、触れるもの全てを蝕む毒を有し、《世界樹》を根から腐らせる龍でもあり、それ故に《世界樹》からは最も危険視されています。また龍の一人として数えられる事もあり、その際はニルヴァーナと対をなす闇の龍として考えられています」
 ニーズヘッグから視線を外さぬまま発されたオーラの説明により、一行の顔付きは更に変化する。
 特に《世界樹の神子》であるターヤは誰よりもその危険性を実感し、元よりその事を知っていたアクセルは肯定するように益々顔を歪めていく。
 しかし、レオンスはまだ信じられないとばかりに眉尻を下げていた。
「どうして、ウィラードが……」
「本来の『ウィラード・チェンバレン』とは貴方方の知っている彼ではなく、その身体の方を指します。人格の方は、本来の『ウィラード』とニーズヘッグとの意識が混ざり合って形成されたものですから」
 ついつい弾かれるようにして、レオンスはオーラを振り返ってしまう。
「……つまり、俺達の知っているウィラードはニーズヘッグでもあった、という事なのかい?」
 繕う事もできなかった声は、ひどく震えている気がした。すぐに言葉として発せなかったところからも、自らが非常に動揺しているのだとレオンスは知る。
 少しだけ躊躇って、けれどオーラは嘘を突こうとも誤魔化そうとも思わなかった。
「はい。ですが、『ウィラード』の身体を借りた時に、ニーズヘッグとしての意識や思想はほぼ飲み込まれてしまったと言っても過言ではありません。彼は悪事や無体を働かれた事は、一度として無かったでしょう?」
 諭すように宥めるように付け足された声に、レオンスは頷く事しかできなかった。彼女の言う通り、自分達の知っている『ウィラード』こそが、自分達にとっての彼なのだと気付いたのだから。
「けど、何で今になっていきなり正体を現した訳?」
 そこにアシュレイが投下したのは、皆も思っていた疑問だった。棘が含まれているように感じられるのが彼女らしい。
 けれども、そこにレオンスが反応する事は無かった。
「限界、だったのでしょう」
 ぽつりとオーラが零した言葉により、再び彼女へと皆の視線が集中する。
「ニーズヘッグと『ウィラード』の意識は混じり合い、完全に一つの人格として同化していました。元より『ウィラード』に闇魔に憑かれる要因があったのか、拒絶反応も起こってはいませんでした。ですが、借りていた身体の方が限界に近付いていたのです。……元を辿れば、脆弱な人間の死体なのですから」
 この言葉にぎょっとしたのは、何もターヤだけではなかった。皆揃ってすっかりと生きている人間に憑依していたのかと思い込んでいた為、その事実自体も相まって、驚きが一気に膨れ上がったのだ。

 そしてアクセルの中では、一つの推測が思い浮かんでいた。
「じゃあ、俺が今回はあいつに違和感を感じたのも――」
「おそらくは、そのせいかと。元々死体に憑依していたが故に彼は病弱となってしまっていたようですが、最近になって、流石に限界が来たのでしょう。それ故に僅かに漏れ出た闇魔の気配を、生来対闇魔のエキスパートであるアクセルさんは、本能的に感じていたのではないかと思われます」
「ウィラードが病弱だったのも光が苦手だったのも、そのせいだったのか……」
 ようやく合点がいったように、レオンスは呆然とした様子で呟いた。
 依然として、メイジェルは黒龍を見上げたまま立ち尽くしているだけだ。
「とにかく、このままにはしておけねぇよな」
 そう言ってアクセルは鞘から大剣を引き抜くが、それに気付いたメイジェルがすばやく彼の前に立ち塞がるようにして振り向いていた。アシュレイ程ではないにしても、レオンスには匹敵するのではないだろうかと思える身のこなしだった。
 彼女の意外な動きの良さにターヤ達は驚くも、メイジェルは発言主たるアクセルだけを睨み付けている。
「キミも、ターヤみたいに《世界樹の神子》で、ウィラードくんを殺すの?」
 この言葉で、ようやく残った面々もまた、クレッソンが彼女に何を言ったのか理解できた。
 思わず怒りを覚えて、ターヤはぎゅっと拳を握り締める。彼のせいで今、彼女の大切な友情には修正できなくなるかもしれないヒビが入りかけているのだから。
「例え話が通じようが、そいつは闇魔で、あの《毒龍ニーズヘッグ》なんだ。しかも、おまえの言葉も聞こえてねぇみてぇだし、このまま放っておく訳にはいかねぇんだよ」
「あくまで、ウィラードくんを殺すつもりなの?」
 その問いに対する答えしか求めていないかのように静かに自分を睨み付けてくるメイジェルを、アクセルは複雑な内心で見ていた。それでも調停者一族の端くれとして、正面から向き合う事にする。
「ああ。闇魔は、消す。それが、俺達調停者一族の本能だ」
「それなら、アタシはキミ達と戦う」
 すぐさま覚悟を決めたようにメイジェルは戦闘体勢となった。
「メイジェル!」
 危機感を覚えて咄嗟にターヤは名を呼ぶが、その声に反応したメイジェルは彼女を睨みつけてきただけだった。そこには最早敵意しか映ってはいない。
「っ……!」
 友人から向けられた視線に言葉を無くし、ターヤは数歩程よろよろと後退していた。
 そんな相手では障害にならないと判断したのか、メイジェルは即座に視線をアクセルへと戻した。そして今度こそ相手目がけて飛びかかろうとするも、その腹部を何かが貫いていた。
「「!」」
 顔色を一変させた一行とは対照的に、メイジェルは何が行ったのか判らないというような顔になっていた。
「……え?」
 間の抜けた声が彼女の口から零れ落ちた瞬間、思いきりそれが引き抜かれた勢いで、傷口から血が飛び散る。ばしゃあ、とそれは手元のコップから水を零したかのように、少し離れた前方の地面へと落ちて広がった。そこでようやく、彼女の目が自身の腹へと落とされる。そしてゆっくりと首を持ち上げてから振り向き、背後に聳え立つ黒龍の前足の片方が持ち上げられ、その内の爪の一つが赤く塗れている事を彼女は知った。
「……ぁ――」
「メイジェル!?」
 ようやく事態を理解してメイジェルが零した声に、ターヤの絶叫が重なる。
 けれども、彼女の意識は黒龍にしか向けられていなかった。
「ウィラー、ド、くん……?」
 遅れてやってきた腹部の痛みに襲われながらも、メイジェルは本来の姿となったウィラードを見上げる。そこには敵意も怒りも無く、ただただ信じたくないと言わんばかりの表情しかなかった。

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