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三十二章 心に負う傷‐Ashley‐(9)

「冗談じゃないわ。ここはあたし一人でも何とかなるわよ」
 苛立ちと共にそう告げれば、皆は言わんこっちゃないというような様子になったりアクセルを睨み付けたりし、アンティガは興味深そうに口の端を持ち上げる。
「ほう、御手並み拝見といかせてもらおうか」
「ええ、見せてやるから、しかとその眼に焼き付けなさいよ」
 気合い充分に言い返し、アシュレイは前方へと踏み出していく。
 その行動を目にした瞬間、ターヤは彼女の思惑を何となくだが察してしまった気がした。
「アシュレイ!」
 咎めるように、制止するように名を呼べば、その足が止まり彼女が目だけで振り向く。
「変身、するつもりなの?」
 確かめるように小さな声で問えば、それで皆もまた彼女の思考を理解したようだった。すばやく心配や不安などを映した幾つもの目が彼女へと向けられる。
 しかし、当の本人は微笑みを浮かべてすらいた。
「あたしにしかできないでしょ?」
「でもっ!」
「良いから」
 思わず上げられた声に重ねるようにして言えば、遮られたターヤの声が止まる。
「あたしにやらせて。……あんた達には、知っておいてほしいの。以前はただ暴走するだけだったけど、今回は違う。ちゃんと制御できてるんだって事を」
 どこまでも真剣な声だった。
 そうなれば、もう誰も反論する気にはなれなかった。
「アシュレイ……」
 心配そうに眉尻を下げたターヤを、もう彼女は見ない。
「アシュレイ」
 そこに一つの声がかけられた。わざわざ振り向かなくとも、その主が誰であるかなどアシュレイには手に取るように解ってしまう。
「任せて良いか?」
「ええ。アクセルはそこで指でも銜えながら見てなさい」
 それだけで充分。彼女と彼との間でそれ以上の言葉は必要なかった。
 会話を切り上げたアシュレイは、気持ちを切り替えるかのように一歩、また一歩と彼女にしては遅めの速度で敵陣へと向かっていく。そうして仲間達を捕らえる〈結界〉とは距離を開けたところで、ようやく立ち止まった。
 アシュレイを隔離させてからこの方、アンティガとセレス、騎士達、そしてソニアは何の動きもとってはいなかった。
「わざわざ待っていてくれるなんて、さっきまでとは違って随分と紳士的なのね」
「最後になるかもしれないと考えて、猶予を与えてやったのに決まっておろう。吾輩の優しさに感謝してほしいものだ」
 放った嫌味には同じく嫌味が返されたが、アシュレイは更にその上を行くアンティガにとっては最上級の嫌味をかましてやった。
「言ってろ、永遠の二番手」
 相手を鼻で一蹴した彼女は、後頭部で髪を一纏めにしている髪ゴムに片手を伸ばして掴む。そして、憤慨した相手が何事かを行ってくる前に、それを一気に抜き取った。それはそのまま懐に突っ込んで、戒めを解き放つ為の契約の言葉は、たった一言。
「『Lo promette solamente』」
 今となっては何の意味も無いと言っても良いその言葉に自嘲し、同時に彼女は悟った。
(きっと、これがターヤの使っていた〈古代セインティア語〉なのね。という事は、エマ様も古代語を知ってて……いけないいけない、もう『エマ様』じゃないんだから。あたしは、いいかげんあの人から自立しなきゃいけないのよ)
 ぼんやりと浮かんできた顔に再び自身を嘲り、そして気を引き締める。
 同時に、彼女は自分自身が変化していくのを感じてもいた。

(これが、あたし――アシュレイ・スタントンの、真の姿)
 全身の肥大と並行して徐々に姿勢は前のめりになっていき、遂には四つん這いとなる。その頃には、元々の人間としてのシルエットは既に形を無くしていた。
 そして変化が止まった時、少女が居た筈の場所には、その代わりに一匹の巨大な豹が立っていた。
「「!」」
 その姿を目にした騎士達が怯みを見せる。
『悪いけど、この姿になったあたしは全く手加減できないわよ。死にたくない奴は下がってなさい!』
 彼らを見下ろしてマフデトは――アシュレイは警告するように叫ぶ。
 騎士達は益々後ろに退きかけるも、途中で踏み堪えて〔月夜騎士団〕の意地にかけて豹へと飛びかかっていく。
 だが、逆に一行の方は安堵を覚えていた。
「アシュレイの奴、暴走はしてねぇみてぇだな」
「おねーちゃんだから、だいじょぶに決まってたよ!」
「ああ、そうだな、良かったな」
 マンスがアクセルの呟きに反論を返せば、その思考などお見通しのレオンスは少年の頭を優しく撫でる。
 本当はもの凄く心配していた事を見抜かれてしまったマンスは何か言いたげな顔になるも、認めるのは恥ずかしかったので沈黙する事にした。その誤魔化しも兼ねて、念の為相棒を呼ばんとする。
 後方がそのような言動を行っている間にも、マフデトと騎士達は交戦を開始していた。
 しかし、元々彼らなど敵ではない上に魔物化した事で体力を気にせずとも良くなったアシュレイは、巨体でありながら高速で四方八方を動き回り、手玉にとるかの如く騎士達を翻弄していた。
 つまりは目に見えて、優劣も勝敗もこの時点で明らかだったのである。
 これならば心配も要らないと安堵しかけて、そこでふとターヤは動きを見せないセレスとアンティガが気になった。もしや何か仕かけようとしているのかと考えて、そこで彼女は見てしまった。
 アンティガは、それで良いと言わんばかりに嗤っていた。結局は全て自分の掌の上だと、相手方を嘲笑うかのように。
「!」
(違う……あの人、アシュレイがマフデトになる事も計算のうちだったんだ!)
 そこに気付いてしまえば、ターヤは再び彼女が心配になる。何とかしなければ、と慌てて周囲を見回そうとし、そこで我に返った。相手に気付かれてはならないと自身に言い聞かせ、用心して周囲を確認する。ソニアは何のアクションも見せてはいなかったので、そこにだけは安心できた。
 様子を一変させたターヤに気付いたアクセルは、不審げな顔で問いかける。
「おい、どうしたんだよ?」
「あのアンティガって人、多分、最初からアシュレイをマフデトに変身させる気だったんだと思う。何でそうしたのかは解らないけど、多分、何らかの意図があるんだと思うの」
 外側には漏れないように、けれど仲間達には伝わるように、声量に気を付けながらターヤは自らの意見を述べる。
 彼女の意図に気付いた皆も、顔や耳などを寄せてくる事はしなかった。
「ターヤさんがそう仰るのでしたら、おそらくはそうなのでしょうね。貴女の勘は時として、非常に鋭いですから」
「確かに、あいつらは今のところ、自分から仕かけてくる様子は見せていないからな。ターヤの言う通り、何か裏がある可能性は高いな」
 オーラはターヤの勘を信じる姿勢をとり、レオンスはそれを助長するような発言をする。
 とは言え、現状ではそれが解っていても、皆にも手の出しようが無かったのだが。
 そのように心配されているとは露知らず、アシュレイは一方的に騎士達を屠っていた。
(ここまでは順調ね……けど、相手はあのアンティガ、油断はできないわ)
 相手方の大将を警戒はしながらも、眼前の敵はあと数人となった時だった。

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