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三十二章 心に負う傷‐Ashley‐(10)

「!」
 唐突に身体が急激に重くなり、急停止を余儀なくされたかと思えば、がくんとアシュレイはその場に膝から崩れ落ちる。そうなれば、ここぞとばかりに残った騎士達がじりじりと包囲してくるが、そちらはさして重要ではないので眼中には無かった。
『な、に……これ……!』
 周囲を見回しても、何も魔術の術式らしきものは窺えない。すぐさま有力な原因と思われるアンティガの方を睨み付ければ、彼は実に愉快と言わんばかりの嘲笑を浮かべていた。明らかに彼の仕業だと解る笑みであった。
「ああ、なぜこれ程にも身体が鈍重になっているのか、と問うているのだろう? 何、簡単な事だ。貴様が雑兵共と戯れている間に《司祭》の小娘に呪術を使わせ、その対象を貴様としただけの事よ。まさか、これ程までにも効果が強いとは思わなかったのだがな」
 そう言ったところでアンティガは一旦言葉を切り、相手の表情を舐め回すかのように見る。
「なぜ、とでも言いたいようだな。確かに媒介は両者とも強い憎悪を表出させてはいないが、《司祭》の小娘の方ならば貴様には心当たりがあるのではないか?」
 それから、そのままわざとらしく補足してみせた。
 アシュレイは答えない。悔しさと苦しみに顔を歪ませたままだ。
 そうなればアンティガは、益々楽しそうに笑みを深めるばかりだった。
「ふむ、思った通り図星のようだな。……ああ、ついでに補足しておくならば、小娘の自我を奪っているのもまた魔道具だが、最も強い憎悪を増長させる術式も付与されておる。ここまで言えば、貴様にも察しがつくであろう?」
 彼の言う通り、いつの間にかソニアの表情は強い憎悪に彩られていた。その眼は、一直線にアシュレイを捉えている。
「一度は上げさせておいて落とした時の貴様の表情は、実に見ものであったな」
 それが真の狙いであったと、暗にアンティガは語っていた。
 丁寧に嫌味たっぷりで解説まで行ってくれたのだから、アシュレイは益々彼への険を強めるしかない。ぎり、と犬歯の間から憎しみの音が漏れた。
 そして、ターヤ達もまた嫌な予感を確信と心配と焦燥とに変えていた。
「アシュレイ!」
「なるほど、これが狙いだったんだね」
 アクセルは咄嗟に彼女の名を叫び、スラヴィは冷静さを欠かずに分析する。
 けれども、現在の彼らにはどうする事もできなかった。ただ歯噛みしながら状況を見守る事しか許されてはいない。
 動けないアシュレイを包囲する騎士達はその範囲を徐々に狭めており、セレスもまた、いつアンティガの命が来ても良いように構えているようだった。
 どうしよう、とターヤは焦る。特段頭が回る訳でも兵法に長けている訳でもない彼女には、この場における打開策など考え付きそうにもなかった。
「くそっ、どうしたら良いんだよ!」
 言葉にはしなかった彼女とは反対に、アクセルは声に出して荒らげてしまう程に焦燥を覚えていた。
 誰よりも心配なのだと察して胸を締め付けられ、そこでふとターヤは皆の背に隠れるかのように端の方で何事かを行っているマンスに気付いた。
「マンス、どうしたの?」
 できるだけさりげなく近付いて問えば、弾かれるように少年は少女を見る。必死な顔付きだった。
「さっきから何度もモナトを呼んでるんだけど、この〈結界〉のせいなのか、ぜんぜん応えてくれないんだ!」
 その言葉で、ターヤは何となく理解できた気がした。
 マンスもまた現状を打破するべく反射的にモナトを呼ぼうとしたが、なぜか相棒は応えてはくれず、二重の意味で焦ってしまっているのだろう。
 彼女の考えを肯定するかのように、少年は独り言のように先へと進む。
「四精霊に訊けば分かるかもしれないけど、彼らを呼ぶには召喚魔術じゃないといけないし……」

「けど、この前は呼んだら来てくれていたよな?」
「あれは……何でだったんだろ?」
 気を逸らさせようとするかのように疑問を口にしたレオンスには勢いのままに言い返そうとして、そこでマンスは自分にも解らない事に気付く。うーん、とつい悩ましげに首を捻るも、やはり解らないものは解らなかった。
 だが、そこにオーラから解説が入れられる。
「貴方が四精霊全員に真の意味で認められたからですよ、マンスールさん。以前はただの〈契約〉でしかありませんでしたが、今の貴方と四精霊の関係は、精霊同士の結び付きくらい強固なものと化しているのです」
「じゃ、じゃあ、ぼく、四精霊を呼んでみるよ! 四精霊ならこの状況を――」
 それを聞いて意気込んだマンスだったが、瞬時にオーラは神妙な様子で首を振る。
「いえ、四精霊を呼べば、アンティガさんはすぐさま対応策を練り講じてくる事でしょう。確かにニスラに押されている印象の方が強いかとは思いますが、あれでも頭の回転の速さは世界有数なのですから。故に、なるべく相手に手の内を悟られるような戦法は避けた方が宜しいかと思われます。それに貴方はまだ真の《精霊王》ではありませんから、万が一の場合もありえるかと」
 詳しくは言わないオーラだったが、『万が一』が起これば精霊に何かしらの負担がかかるのであろう事は誰もが何となく察せていた。
「そ、それはそうかもしれないけど……」
 そこについては解っていたらしく、けれどマンスはそれでも躊躇いを見せる。
 そんな彼を落ち着かせるべく、オーラはなるべく緩やかな声を紡ぐ。
「アシュレイさんが心配なのは、ここに居る全員が同じです。それに、この状況を打開しなければモナトさんの事も調べられないでしょう?」
 正論だと思ったのかマンスは黙り、小さく首肯した。
「それに、相手に一泡吹かせてやりたいとも思いますからね」
 付け足されたオーラの言葉には若干の悔しさが滲み出ており、その顔は悪巧みをしているかのような表情へと化していた。
 やはり彼女もまたなかなかに負けず嫌いのようだ、と皆は確信する。
「それで、どうするつもり? そこまで言うって事は、何か考えがあるんだよね?」
 スラヴィが話を元の軌道上に戻せば、オーラは即座に真剣な顔となる。
「はい、方法が無い訳ではありません。ただ、その為にはターヤさんの力を御借りしたいのです。……御願いできますか?」
 顔を向けられて真剣な様子で頼まれれば、ターヤには断る理由など無かった。
「うん、解ったよ。それで、わたしは何をすればいいの?」


 アンティガは実に愉快だった、嗤いを止められそうになくなるくらいには。今のところ、予測していた全てが自身の掌の上で踊っていたからである。
(ああ、実に愉快だ。クレッソンの若造が何のつもりで《神子》と《神器》を警戒しているのかは知らぬが、大した事などないではないか。やはり吾輩が、吾輩こそが――危ない、ついつい我を忘れるところであったわ)
 別世界へと飛びかけた意識を戻し、そこで彼は相手方の様子を確認する事にした。
(さて、小娘共はどうしておるのか。とは言え、未だ我が術中にはまったままなのだろうが)
 顔でも内心でも見下し嘲笑いながらそちらに視線を戻し、そしてアンティガは益々気分を良くした。
 かの《神器》は、まるで体調でも急激に悪化したかのように《神子》へと凭れるようにして寄りかかっていた。《神子》の方は背を向けているので顔は見えなかったが、その雰囲気から焦っている事が窺える。何より、その背から僅かに見えている《神器》の顔は苦しげに歪み、汗が伝っているようでもあった。
 これは、と気を良くしたままアンティガは頭を巡らせる。
 厄介な要素を併せ持つ《神器》になぜか〈星水晶〉が効果を持つという事は、断片的ながらも彼は掴んではいた。
 そして、一応〈星水晶〉を使用しているとは言え、それはあくまでも《司祭》が持つ杖の魔道具のコアのみにである。故にこちらにはさして期待もしていなかったが、最も面倒な存在である《神器》を無力化できているならば上々と満足する。

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