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三十二章 心に負う傷‐Ashley‐(5)

 観衆が見守る中、クレッソンの眼前まで来ると、女性はゆっくりと膝を追って曲げていき、そのまま舗装された地面へと付ける。それは紛れも無く跪く姿勢であった。
「ただいま戻りました」
 彼女はそれだけしか言わなかったが、この言葉こそが全てであった。
 故にクレッソン派は目にも見えて沸き立ち、逆にアンティガ派は面倒な事になったと言わんばかりの顔になる。
 けれどもブレーズは、ただ一人衝撃の波から脱出できてはいなかった。
「クラウ……?」
 反射的に、確かめるようにその名を口にしてしまう。
 彼の声を耳が拾ったらしく、女性がブレーズの居る方を振り向く。ようやく視認できたその顔に、六年前までに見てきた少女の顔が重なった。途端に感慨深くなり、彼は声も出せなくなる。
 しかし、彼女はまるで彼のことなど最初から知らないかのように、すぐさま顔を正面に戻した。
「……!」
 衝撃を受けて固まるブレーズを置き去りにし、女性はクレッソンの後に続いて本部の中に消えていった。まるで嵐の如く。
 残されたブレーズは、しばらくそのままそこから動けなかった。


「あたしが魔物マフデトで、今の《元帥》……ニールソン・ドゥーリフと絶対服従の〈契約〉を結んでたって事は、もう知ってるわよね?」
 同じくらいの時刻、一行は草の上に円を描くようにして腰を下ろし、アシュレイの話に耳を傾けていた。
「だけど本当は、あの〈契約〉は、最初はあたしを護る為にニールが行ってくれたものだったの。……薄々気付いているとは思うけど、あたしは〈軍団戦争〉に参加してたの」
 瞬間、やはりかという思いが本人を除く全員の心中で生じた。グライエル荒野を忌避するこれまでの様子や態度、あるいはフローランの発言などから、彼女が〈軍団戦争〉に参加していた事は皆も薄々勘付いていたからだ。
 それを確認してからアシュレイは、唐突に自身の過去話へと移る。
「あたしはね、幼少期に実の両親を亡くしてて、それで叔母の家に――スタントン家に引き取られたの。正確な歳は覚えてないけど、三歳とか四歳とか、それくらいだったかと思うわ。だから、もう自分の本名も実の両親の顔も覚えてないのよ」
 まさかの事実に、隣に座っていたターヤは目を丸くした。
 他の面々も予想外だったらしく、目を瞬かせている者も居る。
「それまでは一人っ子だったと思うんだけど、引き取られてからは一つ違いの妹が一人できたの。ディオンヌ・スタントンって言ってね、とっても元気で明るくて優しい子で、幼いあたしが制御できずに魔物の姿になっちゃった時も、あの子とお母さんだけは恐がらなかった。自分達も猫だし、人の姿になれるから似たようなものだ、って言ってくれたの。村の人達からの風当たりが強くなっても、お母さんとあの子はあたしを家族として扱ってくれた。それが、どんなに嬉しかった事か……」
 懐かしそうに、その記憶を愛おしむように、そっとアシュレイは胸に手を当てた。
 妹が居るという話は以前聞いた事があるような気がして、ターヤは思わず口を半開きにするも、すぐに話し手の表情を目にして微笑む。
 だが、次の瞬間にはアシュレイの顔は曇っていた。
「だけど、あたしは馬鹿だった。お母さんの事を実の母親だと思い込んでいたあたしは、九歳の時、真実を告げられたの。だけどあたしはそれを受け入れられなくて、散々お母さんとあの子に当たり散らして引きこもった。二人以外には魔物だからって忌避されてたのもあって、自分は『偽者』なんだ、って思うようになっちゃったの。そんなあたしにも毎日二人は声をかけてきてくれて、ようやくあたしはちゃんと向き直ろうって思えるようになった。……それなのに――」
 そこで言葉は途切れた。アシュレイの顔は俯けがちになっており、重力により落ちてきた前髪に隠される形で見えなくなっている。けれども、その唇は確かに震えていた。
 思わず声をかけたくなって、しかしそうする事はターヤにもアクセルにもできなかった。
 そのまま、しばらくアシュレイは黙り込んでいた。

「……あの日は、強い雨の合間に雷の鳴り響く日だった」
 ようやく再開された話は、奥底から絞り出すような声で始められた。
「熱を出したあの子の為にお母さんが薬草を取りに山の方に行ったと知って、あたしは居てもたってもいられなくなった。天気はかなり悪かったし、あの山は急斜面や崖が多かったから、何かあったらどうしようと思ったの。だから必死に走って走って、崖の傍に薬草を持つお母さんの姿を見つけた時は心の底から安心したし、嬉しかった。そのままあたしはお母さんの許まで走って――だけど、そこでお母さんの足元が崩れたの」
 途端に、アシュレイの表情がこれでもかと言うくらい歪んでいく。
「あたしは必死に手を伸ばして、お母さんも手を伸ばして、だけど掴めたのはその手にあった薬草だけだった。お母さんも最初からそれが狙いだったみたいに、最初から悟ったような顔で微笑んでいて……そのまま、お母さんは落ちていった。あたしは、呆然と座り込んだまま何もできなかった。マフデトになれば、助けられたかもしれなかったのに……! 一度変身しちゃった時に村の人達から向けられた嫌悪や恐怖の目が忘れられなくてだなんて、そんなのただの言い訳でしかなかったのに!」
 途中からはもう、泣き叫ぶような声に変わっていた。両手は拳となって地面に押し付けられ、上半身はそのまま地面に顔をぶつけようとするかの如く前のめりになっている。
 これ以上は見ていられなくて、思わずターヤは彼女に抱き付いていた。ぎゅっと、抱き締めていた。
 それに気付いたアシュレイは、縋るように片手で首元に回るターヤの腕を掴む。
「……だから、あたしは雷が大嫌い。あの日の事を思い出すから、大嫌い……!」
 何とか感情を押さえ付けようとしているらしく、アシュレイの声は不自然なまでに震えていた。
 彼女を宥める為に、抱き付いた姿勢のままターヤはその背中を軽く何度も叩く。
 そうこうしているうちに、だんだんとアシュレイの震えは治まってきた。
 アクセルはそれまで抱えていたショックも忘れかけて、ただアシュレイだけを見ていた。
「もう、大丈夫だから」
 普段とは異なる弱々しい力でそっと腕を押された為、ターヤはゆっくりとアシュレイから離れた。そのまま隣に座り直すが、視線だけは離さない。
 アシュレイは目元に溜まり始めていた涙を腕で少し乱暴に拭うと、落ち着いた様子で皆を見る。その目は赤くなっていた。
「ごめんなさい、取り乱しちゃったわ。続けさせて、もらうわね」

​ 無理をしている事は感じ取れたが、それでも通したい意地があるのだと理解している面々が口を挟む事は無い。

「そのまましばらく、あたしは呆然と突っ立てたんだけど、我に返って、慌てて家まで走って戻ったの。それで薬草を飲ませたらあの子は回復したんだけど、お母さんはって聞かれちゃって、あたしは答えられなかった。あの子は敏かったから、あたしの顔や様子から気付いたらしくて、すぐに言葉を無くしたわ。そうして、あの子とも気まずくなっちゃって、益々村からの風当たりも強くなってたその時、あの男は現れた」
 瞬間、アシュレイの顔から悲しみは完全に消え去り、代わりにそこに現れたのは怒りの色だった。
「あの男――前《元帥》は、どこからかあたしの話を聞きつけてきたらしくて、近々〔騎士団〕と戦争するから〔軍〕に協力しろ、ってあたしに言ってきたの。勿論断ってやったわ。そしたらあの男、何をしたと思う?」
「妹を、人質に取られたんだね」
 すぐに確認するかのようにスラヴィが応えれば、アシュレイは頷いてみせる。
「ええ。あいつは、あの子を人質にとって、あたしに協力しろと言ってきた。断れば殺すとまで言い足して。あたしはどうしたら良いのか解らなくて、あの子を失いたくなくて、あの男に協力する事にした。それからは言われるがままにマフデトになって、何人もの騎士を殺した。そうしないとあの子を殺されるからって、内心で自分を正当化してね」
 自嘲するかのような表情だった。アシュレイはあくまでも、それを自身のせいであり罪であるとして認識していたのだ。
「そうして何人殺したのかも解らないくらい両手が血に塗れたくらいだったかしら、もういいかげん嫌気が差したあたしは、あの男に直訴しに行ったの。……だけど、そこで見たのは物言わぬ死体となったあの子だった。あの男は、人間よりも丈夫なあの子の身体を使って、人体実験をしてたのよ……!」
 再び声が怒りに震え、アシュレイの手が強く握り締められて拳を形作る。

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