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三十二章 心に負う傷‐Ashley‐(2)

 もう一度引っ掻き回しに行き、再度あの表情を拝んでやりたいものだと思ったところで、リチャードは異変に気付いた。街の中の空気が、どことなく重くピリピリしているのだ。
「これは……何か起こっているようですね」
 表情を正して今度は速足気味に歩き出し、大樹の許まで馳せ参じたところで彼は予測を確信へと変えた。
 街の中心にして丘の頂上に聳え立つ大樹の前には少年が立っており、その視線の先には水鏡が浮かび上がっていたからだ。そこに映し出されているのは、始まりの街エンペサルの中に建つ〔PSG〕本部と、その周囲を固める大量の武器を手にした軍服の人々だった。
「イェソド、いったい何があったのですか?」
「侵攻、されている」
『つい先程、唐突に〔モンド=ヴェンディタ治安維持軍〕が〔PSG〕を襲撃してきたのだ』
 問えば、振り向いた少年と大樹から応答があった。
 なるほど、とリチャードは街の中に漂う空気の意味を知る。同時にこれは面白いとも思ったが、流石にそれを口にする愚行は犯さない。代わりに、ヴァンサンと《世界樹》へと提案を行った。
「でしたら、目にもの見せてやれば良いのではないのですか? 痛い目に遭えば、彼らもこの愚行をすぐさま止める事でしょう」
『リチャード』
「僕達は、世界樹の民だから」
 けれども案の定《世界樹》には諌められ、ヴァンサンには止められてしまった。
「無駄な殺生は控えろ、と仰いたいのですか」
 これでも長い付き合いである、リチャードにはヴァンサンの言いたいことにおおよその予想がついていた。相変わらず生温いという思考が浮上し、ついつい呆れたような顔付きと声色になる。
 すると、やはりヴァンサンは首肯してみせた。
 大樹もまた咎めるように葉を揺らしている。
 そうなればリチャードはわざとらしく溜め息を吐き出し、付き合っていられないと言わんばかりの顔で首を横に振る。自身の本性を押し隠す気は今は更々無かった。
「確かにその意見にも一理ありますが、そこまで言うのでしたら、ここは貴方の好きにすれば良い」
「そうさせてもらう」
 最初からそのつもりだったらしく、ヴァンサンは即座に頷いた。そして首を元の方向に戻して片手を持ち上げ、その掌を映像へと真っすぐに向ける。
「〈結界〉」
 瞬間、〔PSG〕本部を薄い膜のようなものが覆い隠す。
 今にも突撃しようとしていた軍人達はそれに阻まれてしまい、慌ててそれを破るべく武器で攻撃するも、その程度で壊される〈結界〉ではなかった。かくして打つ手を失った彼らは、悔しげながらもどこか安堵したような表情となる。
 その様子を見たリチャードは、わざとらしく拍手するかのように両手を叩き合わせてやる。
「流石はイェソド、お見事です」
 けれども、それが揶揄だと解っているヴァンサンは振り返る事も応える事もしなかった。
 大樹の葉が、再び揺れた。
 一方、魔道具を通じて即座にこの報告を受けたニールは、呆気無いくらい簡単に撤退命令を出した。困惑する現地の部下達には構わず、彼はすぐに通信を切ってしまう。それから珍しくまともにソファに腰かけた体勢のまま、肘掛けに頬杖をついた。
「やっぱり、まだ〈世界樹〉は相手にできないね」
 口調だけならば残念そうではあるが、その声はどこか楽しそうでもあった。まるで最初からこうなる事を解っていたかのように、悔しがったり驚いたり慌てたりする様子は微塵も見受けられない。
 そして彼の傍らに控えているユベールは、自身が抱いている不安が日々大きくなるのを実感していた。このまま彼についっていって良いのだろうか、とすら思えるようになっているくらいには。

(フアナ、僕は……)
 どうしてか、今ならば彼女と落ち着いて話ができる気がした。


 一行から離れてアシュレイを捜しにいったターヤは、ツィタデーリ峡谷寄りの、リンクシャンヌ山脈の一部である岩場の方まで来ていた。
(多分、一人になれるこっちに居そうだと思うんだけど……)
 これまでの経験からおおよその見当をつけて、ターヤは周囲をくまなく見回しながら岩場の中を歩く。足元までもがごつごつと尖った岩で覆われていて歩きにくかったが、今はそこについてはあまり気にならなかった。
 そうしてようやく見つけたお目当ての人物は、そのうちの一つに背を預けるようにして座っていた。
「アシュレイ……」
 思わず名を呼んだ声を彼女の耳が捉えているのかいないのか、応える声は無かった。
 近付くべきなのか、それともこのまま皆のところに戻るべきなのか、迷う。本当ならば居場所だけを確認するつもりで居たのだが、その小さくなった背を見てしまった事で、決意は揺らいだのである。自分はかなりの心配性なのだな、と無言で独り言ちてすらいた。
「……ねぇ、ターヤ」
「へっ!? なっ、何?」
 そこに声をかけられた為か、ついついオーバーな反応をとってしまう。
 だが、アシュレイはそこには反応を示さず、どこか虚ろな声のまま彼女を呼び寄せた。
「隣に、来てほしいのよ」
「う、うん……」
 彼女にしては珍しく懇願するような口調だったので、相当弱っているのだと気付いてターヤは思わず頷いてしまう。それから躊躇いがちに近寄り、その隣にゆっくりと腰を下ろした。
 呼んだ側であるアシュレイは、隣は見ずに前だけを向いたままだ。続く言葉も発さない。
 ターヤは彼女が口火を切るまで、同じように前を眺めながら待った。
「……あたしね、最近エマ様の様子が変な事には気付いてたの」
 それからどのくらい時間が経ったのかも判らなくなった頃、ようやくアシュレイは口を開いた。それでも無理矢理出したかのような声だった。
「でも、その理由までは解らなかったし、最初は考えようともしてなかった。クレプスクルム魔導術学院に行った時からエマ様は悩んでたのに、あたしは呑気にアクセルと話してて……それを、心の底から楽しんでた」
 素直なまでに紡がれる少女の独白を、ターヤは口を挟まずに聞いていた。
「エマ様が何かに苦しんでるんだと気付いてからも、結局傍に居る事しかできなかった。今の関係が壊れる事を恐れて、踏み込んでいく事もできなかった。……ただ、そこに居るだけだったの」
 ぎゅっと自身の腕を掴む彼女の手に力が籠り、その顔が抱えられた両膝に埋められる。
「あたし、エマ様のことを一番解っているつもりで、一番解っていなかった。エマ様がひどく悩んで苦しんでる時に、その原因である奴と良い感じになって、それどころか、あんなにも浮かれてたなんて……!」
「アシュレイ」
 遮るように名を呼べば、弾かれるようにしてアシュレイは顔を向けてきた。
 ゆっくりとターヤは首を横に振る。それは違うのだと否定するかのように。
 すると彼女は今にも泣き出しそうな顔になった。おそらく、彼女も理解してはいるのだ。それでも、大切なエマを蔑ろにしたどころか、あまつさえその元凶とも言える人物を好きになってしまった自分を、ひどく恥じているのだろう。
(誰が悪い訳じゃないけど……でも)
 複雑な思いを押し止めようとするかのように、ぎゅっと胸部の服を握り締める。それから、ターヤはゆっくりと声を紡ぎ出し始めた。言っておかなければ、と思ったのだ。
「あのね、わたし、エマのことが好きだったみたい」
 唐突な告白はやはり唐突すぎたようで、即座にアシュレイの眼が丸くなる。

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