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三章 廻り出す円‐omen‐(8)

「……あれ?」
 そのつもりが、そこには誰も居なかった。
 すばやく周囲に視線を走らせるが、自分とエディット、そして離れた場所にオッフェンバックが居るだけで、他に人影は無い。再び気配を探ろうと精神をも集中させてみたが、先程まではこの場にあった筈の気配は、既にどこにも無かった。
「……消失」
「もしかして、勘違いだったのかな?」
 不思議そうに首を傾げたフローランに、エディットは答えなかった。
 一方、その上方。路地裏を形成する建物群の屋上の一つで、ターヤは力無くへたり込みながら、深々と安堵の息を吐いた。
「た、助かった……」
 その隣には、銀髪を靡かせた美しい少女が立っている。
 あの後、軽くパニックを起こしかけていた彼女は、唐突に背後から現れた謎の少女によって助けられ、ここの屋上まで避難させてもらったのだ。それからずっと、先程まで自分が居た場所を見下ろしていた。
「怪我はございませんか?」
 力無い動作で否定すると、立ち上がれないままに彼女を見上げた。
「ううん。助けてくれて、ありがとう」
 最初は若干の警戒を持っていたターヤだったが、相手はただ声をかけてくるだけで、他には何もしてこなかった。加えて、その場の空気が張り詰めていない事を知ると、ようやく安心を覚え、彼女が信頼できると知ったのだった。
 述べられた礼に、少女は首を横に軽く振った。
「いえ、困っている方を助けるは、当然の事ですから」
「でも、ありがとう」
 それでも尚、礼を述べると、少女はふわりと柔らかな笑みを浮かべた。見る者全てを魅了してしまいそうな、秀麗な微笑みを。
 彼女につられて、ターヤもまた笑う。
「わたしはターヤって言うの。あなたは?」
「私、ですか?」
 彼女は驚いたようにターヤを見て、それから少しだけ目を瞬かせた。次に表れた何事かを思案しているような顔は即座に一転し、悪戯染みた顔になる。
「そうですね……今はまだ、名乗らないでおきましょうか」
「え、どうして?」
「貴女とはいずれ、また御会いできるでしょうから。その時にでも、名乗らせていただきますよ」
 ますます相手の意図するところが解らずに首を傾げるターヤだったが、彼女はそれ以上この話題を続ける事は無かった。代わりに、未だ座り込んだままのターヤへと手を差し伸べてくる。
 無意識に彼女の手を取ると、外見からは予想もできない力強さで引っ張り上げられ、向き合うようにして立たせてもらった。
「あ、ありが――」
「では、参りましょうか。エンペサルの宿屋でしたよね?」
 え? と口にするよりも、なぜ知っているのかと思考が提示するよりも速く、二人の足元に魔法陣が発動したかと思いきや、気が付けばターヤは異なる場所に立っていた。
 そこは廊下の中央で、とある扉の前だ。そこにかけられたプレートの番号には見覚えがあった。何せ、この場は数十分前にも訪れていたのだから。
「ここって、わたし達の部屋の前?」
「はい、こちらで宜しかったですか?」
「あ、うん。ありがとう……」
 状況も何も全く解らず呆然としていたが、礼だけは口を突いて出てきてくれた。

 すると少女は微笑み、スカートの両方の裾を摘んで軽く持ち上げると、片足を後方に引く。まるで淑女のような、優雅な一礼だった。

「それでは、また御会いしましょう、ターヤさん」

 そうして再び彼女は魔法陣を発動させ、どこへともなく去っていった。

 残されたターヤは未だ理解に至らない点も多かったが、とにかく窮地は脱出できた上、ほんの僅かながら情報も得たので良かったと思うことにした。

(そう言えばアクセルに何も言ってこなかったけど、大丈夫かな?)

 少しばかり思案してみたものの、何となくアクセルなら大丈夫だと思えたので、武器屋に戻るという選択肢は無くなる。それに、もしかすると既に代わりとなる武器を見付けて、既に別の場所に移動しているかもしれないからだ。

 その為、ターヤは部屋に戻ろうとする。

「……あれ?」

 待てよ、とそこで彼女は重大な事実に気付く。

 彼女がアクセルに連れられて部屋を出た時、まだそこにはエマとアシュレイが残っていた。という事は、部屋の鍵は二人が持っている可能性が高く、また用心の為に部屋は必ず施錠されているという事だ。

 先程の少女に宿屋ではなく、皆のうちの誰かしらの許か、あるいは室内まで送ってもらえば良かった、と思っても既に遅かった。

(ど、どうしよう、やっぱり、アクセルのところに――)

「どうかされまして?」

 唐突にかけられた声に振り向けば、隣の部屋の扉が開かれており、そこから一人の女性が上半身を覗かせていた。右肩で一つに纏められた金髪が、静かに靡いている。

 隣の部屋の人か、と思うと同時、急に恥ずかしさが込み上げてきて、現在の状況を説明するのが憚られた。

「あ、えっと……」

 そうして答えに窮していると、女性が小さく笑った。

「もしかして、部屋の鍵は、別の方が持っていらっしゃるとか?」

「あ、うん、そうなの」

 見事に言い当てられてしまい、ターヤは羞恥から小さくなる。

 女性は微笑むと、音も無く扉を更に開けた。

 状況が飲み込めずに首を傾げれば、今度は女性は外に出てきて、片手でそっと部屋の中を示した。

「でしたら、宜しければ、お連れの方が帰っていらっしゃるまで、私と話しませんこと?」

「え、良いの?」

「ええ、私もちょうど暇していたところですの」

 にこりと笑いかけられたので、ターヤは彼女の提案に乗る事にした。今頃は場所を移しているかもしれないアクセルを捜すより、隣の部屋で待っていた方が、戻ってきた時すぐに解ると思ったからだ。

 女性に向かって、ぺこりと頭を下げる。

「えっと、じゃあ、おじゃまします」

「はい、いらっしゃい」

 招き入れられた部屋の中、勧めてもらった椅子に腰かける。

 さて、と彼女は言いかけて、そこで何かを思い出したような顔をした。

「そう言えば、御話の前に自己紹介をしていませんでしたね。ですから致しますわ。私はリュシーと言いますの。貴女は?」

「えっと、私はターヤって言うの。よろしくね」

「はい、宜しく御願いしますわ、ターヤさん」

 テーブルを挟んで、二人は互いにお辞儀する。

 元の姿勢に戻ると、今度こそリュシーと名乗った女性は話し始めた。

「ターヤさんは、どうしてこちらに?」

「あ、えっと、いろいろとあって、それでこの街に来たの」

わたくし

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