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三章 廻り出す円‐omen‐(3)

 そうは見えないが、なかなかアシュレイも大変なのか、と考えたところで、一つ引っかかる点が生じた。自然と視線がアジャーニを捉える。
「あれ、でも、あの人は確か『中将』って名乗ってて、アシュレイに敬語を使ってるから部下の人で、でもエマの説明だと《中将》って、アシュレイの《准将》よりも上で……あれ?」
 終いには混乱してきた為、ターヤは目を回しそうになり、またしてもエマに苦笑された。
「落ち着け、ターヤ。だが、その疑問は誰もが直面するものだ。不安にならなくて良い」
「そう、なの?」
 てっきりエマの反応から、疑問視したのは自分だけなのかと思ってしまっていたターヤである。この世界の事を何一つ覚えていない自分にとっては『あたりまえ』だと感じた事すら、実は非常識なのかもしれないのだから。
 彼女の思考は表情から判断できたらしく、エマは頷く。
「大丈夫、当然の事だ。何せ、上の階級を下の階級が部下扱いできるなど、この世界では基本的に『ありえない』事だからな」
 だが、彼の言葉は彼女の思考と寸分の違いも無く、密かに少女は安堵したのだった。
 そしてまた、浮上する疑問がある。
「でも、それなら、どうしてアシュレイは……」
「それは、アシュレイが《元帥》に重用されている、という点も大きいのだが……何より、ブライム・アジャーニ中将が、咄嗟の判断を苦手としている、という理由が最たるものだからだろうな」
 若干言いにくそうに発せられた答えは、ターヤには理解できないものだった。
「え、えっと……どういう事なの?」
 すると、エマは少し身を屈め、なるべくターヤの耳に口元を寄せてきた。そして、小声で教えてくれる。
「その、どうも当初はアシュレイがアジャーニ中将の部下だったようだが、とある仕事の際、問題の対応に困った彼を見かねて、彼女が助言を出したそうだ。その助言に従うと問題は瞬く間に解決し、そのような事例が何度も続いた為、二人の立場は入れ替わるようになってしまった、という訳だ」

 なるほど、と思える話である。

「元々、アジャーニ中将が頼りなく優柔不断だからだ、とも言われているのだが」
「……有名な話なの?」
「皆、面だって口にする事は無いが……結構知られている事実だ」
 最後に付け足された一文が引っかかり、思ったままに問うてみれば、やはり、との感想が浮かぶ。当の本人とは話した事も無いので、そちらの実感は湧かないが、確かにアシュレイがものははっきりと言うタイプで、判断も瞬時であろう事は予想できた。
 それにしても、年齢も階級も低い少女に部下のように接している事を、かの男性は本心ではどのように感じているのだろうか。
「でも、それなら何で、その、アジャーニ中将は、今でもアシュレイより階級は上なの?」
 この質問には、エマは一旦軍人二人に視線を移し、こちらの会話に気付いていない事を確認してから、説明してくれた。先程よりも、更に小さな声で。
「流石にアシュレイの方が能力は高いとしても、やはり年の功や体裁というものもある。それと、幾らアジャーニ中将が実践を不得手としていても、事務処理における彼の能力は、聞いた話によれば相当高いらしい。ならば、簡単に降格はさせられないだろう?」
「何だか、大人の事情みたい」
 一通り聞き終えたターヤが何よりも先に感じたのは、そんな感想だった。
 これには、エマも再び苦笑する。
「そうだな」
「――という事は、これからの行動は私に一任すると、《元帥》は仰っているのね?」
 話を遮るかのように聞こえてきた声で、二人の会話もまた終わる。視線を元に戻すと、依然として二人の立ち位置も表情も変わっていなかったが、アシュレイはどこか重荷を下ろされたような顔をしていた。
「解ったわ。報告と伝令、御苦労様、アジャーニ中将」
 少しだけ破顔したアシュレイが労いの言葉をかければ、途端にアジャーニから軍人としての仮面は剥がれ落ち、主人に褒められた犬のような満面の笑みだけが浮かぶ。

 その変わりようにターヤは目を点にし、アクセルはあからさまに引き、エマは無言。
 だが、当の本人は気付いていないようで、礼儀正しく一礼すると、部屋を後にした。ただし、表情はそのままで。
 室内に残されたのは、沈黙だけだった。
 またしても訳が解らなかった為、再びターヤはエマに小声で問う。
「……今のって、どういう事なの?」
「二人の立場が実際は入れ替わっている事と、アジャーニ中将の性格については話しただろう?」
 そこについては先程聞いていた為、首を縦に振る。
「それ故、彼は即座に決断し、はっきりとものを言うアシュレイに、どうも憧憬と尊敬の念を抱いてしまったようなんだ。私も彼と面識がある訳ではなく――」
 そこで言葉は途切れたが、ターヤには合点がいった。
「結構、みんな知ってる事なんだ?」
「……その通りだ」
 やはりというか何というか、予想通りである。
 しかし、ここまで知られているという事は、いったいぜんたいどういう事なのか。まさか人前で、仮にも軍人たるアジャーニ中将が先程のような締まらない顔をするとは思えない、と思いかけて、部外者が三人も居たというのに表情を緩ませた彼を思い出す。
(あれなら、広まっちゃいそうだよなぁ)
「全く、本人には聞こえてなかったから良いけど、あたしには丸聞こえだったわよ?」
 タイミング良く溜め息交じりに吐かれた声に、思わずターヤは言葉を詰まらせて硬直する。恐る恐る視線を動かした先では、アシュレイが呆れた目をしていた。この距離、この大きさの声でも届いているとは、彼女は相当耳が良いようだ。
 すぐにターヤから視線を外し、アシュレイはエマを見る。
「エマ様も。せめて、アジャーニ中将が帰ってからにしてください」
「ああ、すまなかった」
 申し訳無さそうに笑うエマ。
 全く、と嘆息するアシュレイ。
 ここで、アジャーニが訪れてから今までは何も言わなかったアクセルが、ようやくと言うべきか、ともかく口を開いた。
「つーかおまえ、さっきの奴と一緒に〔軍〕に帰らなくて良かったのかよ?」
 それは一見すると疑問のようでいて、実際は確信を持った確認だった。
 彼の意図に気付いているアシュレイは、面倒臭そうに眉を潜めて一瞥すると、エマを見た。
「エマ様、先程アジャーニ中将を通して《元帥》から次の指示を頂きました。一旦〔軍〕から離れ、異なる視点から〔騎士団〕に関する情報を集めてくるように、との事でした。ですから、私はこのまま、エマ様に同行させていただいても大丈夫でしょうか?」
 瞬間、やっぱりかと言いたげに、アクセルが複雑そうな顔になる。
 そちらは無視して、アシュレイはエマだけを見ていた。

 彼もまた、それは彼女が残ったところから察していたらしく、特に驚いた様子も無い。
「私は問題無い。アクセルとターヤは、異存はあるか?」
 エマの言葉に、ターヤは首を振る。
「ううん、わたしは無いよ。アシュレイが居てくれると、更に心強いし」
「おい、ターヤ。俺だけじゃ心細いってのかよ?」
「そうは言ってないよ。ちゃんと『更に』って言ったもん」
「ま、こいつが言うなら仕方ねぇか。別に勝手にしろってんだ」
 その言い方だと、まるでターヤが言うから仕方なく許容してやったとでも言わんばかりであったが、反論するだけ無駄な気がしたので彼女は黙る。
「と言う訳だ、アシュレイ」
 問うたのはエマに対してだけだった為、少々憮然とした顔持ちになっているアシュレイではあったが、彼本人に言われてしまえば文句は言えなかった。そうして、渋々ながらも応えようとしたところだった。

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