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二十九章 拭えぬ過去‐Axel and‐(2)

 開け放たれた扉から見えた室内には、手前の布団で寝言は無くなったものの魘されているアクセル、そしてそんな彼を横から立ったまま見下ろしているエマが居た。部屋自体が暗く、光源は障子から入る僅かな光くらいの為、その表情までは見えないが、どうしてかターヤにはその眼がひどく冷えているように感じられた。
(エ、マ……?)
 こんな彼を、彼女は知らない。敵に対して見せた事もあっただろうが、その時彼は彼女達には背を向けているので、正面から目にした事は無かったのだ。
 だから、ターヤは、こんなエマなど知らない。
(何で……何で、アクセルを、そんな眼で見てるの……?)
 思考が混乱し、益々彼女はその場から動けなくなる。指の一本どころかその先端すら、少しも動かせなかった。
 唐突に、その肩をぽんと叩かれる。
「エマ様」
 それにより我に返ると同時、誰かの声が空気を破壊する。思わず振り返った先に居たのは、他ならぬアシュレイだった。その顔を汗がつたっているようにターヤには見えた。
 彼女の声に、ぴくりとエマが反応を見せた。ゆるゆるとその顔が持ち上がり、視界にアシュレイとターヤを捉える。
「アシュレイ……ターヤ……」
 まるで夢から覚めたかのような表情と声色だった。
 その事を理解しているかのように、しっかりとアシュレイは頷いてみせる。
「はい、そうです、私とターヤです。大丈夫ですか、エマ様?」
「あ、ああ……すまない、どうやら寝惚けていたようだ」
 ゆっくりと首肯してから、エマは目元を覆うかのように顔に手を当てる。すっかりと普段通りの様子であった。
 けれども、ターヤは先程の彼が脳裏に焼き付いて離れなかった。
(何で、エマは――)
「……ん、何だぁ?」
 だが、そこで足元から声が上ってきた為、我に返る。そろりと視線を落とせば、声に起こされたのかアクセルが目元を片腕で擦っていた。その視線が動き、アシュレイ、ターヤ、エマと順々に捉えていく。そこには、魘されていた跡など見受けられないようでもあった。
「おまえら……何してるんだよ?」
「いや、何でもない。起こしてしまったようですまない」
 誰よりも先に応えて、エマは最も窓際に敷かれている自分用の布団の傍へと戻っていく。ただし、そこに入る前に扉の方を振り向くのは忘れない。
「ありがとう、アシュレイ、ターヤ。貴女達も寝た方が良いだろう」
「はい、解りました。おやすみなさい、エマ様」
「あ、うん。おやすみ、エマ、アクセル」
 肩に手は置かれていたままだったので、アシュレイに促されるようにしてターヤもまた慌てて彼女に倣い、男子部屋を後にする。閉じられていく扉の向こうで、俺にはねーのかよアシュレイの奴、つーか何だったんだよ、などとアクセルがぼやいている気がした。
 それでも、布団の中に戻っても、ターヤの瞼の裏には先程のエマがくっきりと映ったままだった。
 翌朝、寝るには寝られたものの、寝付くまでも起きてからも昨夜の事がぐるぐると脳内を回ったままのターヤは、そのまま居間へと足を踏み入れる。
「おはよう、ターヤ」
 入ってすぐにエマに声をかけられた為、思わず両肩が跳ね上がる。
 そのような反応をされるなどと夢にも思っていなかったエマは、驚いたように目を瞬かせる。
 すぐに気付いたターヤは慌てて弁解の言葉を並べ立てた。
「あっ、ごめん、ちょっとびっくりしちゃって……おはよう、エマ!」
 最後は挨拶で誤魔化すように閉め、それからすばやく皆の方を向いて挨拶する。やけに声が大きくなってしまったが、現状を問題無く流す事に気を取られ、そこには気付けなかった。
「みんなも、おはよう!」

「やけに元気ね、あんたは」
「あら、元気な事は良い事かと思われますが?」
「うん、俺もそう思うよ」
 気付いているのかいないのか、皆は普段通りに会話する。
 その事に安堵して、そこでターヤは一人足りない事に気付いた。
「あれ? アクセルは?」
「ああ、トリフォノフならまだ寝て――」
「ふぁ……おはよーさん」
 スラヴィが答えている途中で、遮るかのようにして当の本人が居間に現れる。どうやら今日は彼が最後に起きたようだ。
「アクセルが寝坊なんて珍しいね。いつもわたしよりは早いのに」
「何か微妙に悪意を感じる言い方だよな、それ」
 別にそのようなつもりなどターヤには無かったのだが、アクセルにはそう言われてしまった。誠に遺憾である。
 皆へと視線を移していた彼はそんな彼女には気付かず、少し遠慮がちな顔付きになる。
「それでさ、まず先に、ちょっと行きたい所があるんだけどよ……良いか?」
「一人じゃ行けない訳?」
 声色や言い方から内心を察したようで、どこか呆れたようにアシュレイが指摘する。
 図星だったらしく、うっ、とアクセルが言葉に詰まった。それから気まずそうに視線を逸らして潜めた声で弁解する。
「ちょ、ちょっといろいろあったから、一人だと行きづらいんだよ……」
「あんたって奴は……」
 はぁ、とアシュレイは溜め息をつく。
「ま、別についてくのは良いわよ。〔軍〕を辞めたら急に暇になっちゃったのもあるし、昨日の話も、焦っても、仕方がないし」
 だが、続けてすぐに了承の意を示した。後半部分では若干覇気が無くなっていたが、彼女なりに冷静であろうと努めている事が解り、ひとまずターヤは安心を覚える。
「おっ、まじか。なら宜しく頼むぜ」
 それはアクセルも同じだったようで、彼は安堵の表情から一転、は親を発見した迷子の如く顔を輝かせる。
 なぜそのように遠慮する必要があるのかと思っていた面々は、なるほどそういう事だったのかと納得する反面、アシュレイが一人だけ即座に気付けた事に驚いてもいた。
 そんな彼らをもアクセルは窺うように見る。
「おまえらも、良いか?」
「う、うん。別に良いけど……」
 なるべく世界中を回って闇魔を見つけ次第浄化する事が現在の仕事であるターヤは、別の場所に行く分には何の問題も無い。故に代表するかのように彼女が答えると、他の三人もそれぞれ呆気にとられた様子ながらも頷いてみせる。
 すると、更に彼は安心したように胸を撫で下ろした。
「あー、良かった。門前払いされちまうかもしれないし、一人で行くにはちょっときついからな、あそこは」
 ん? とそこで皆は同時に疑問を生じさせた。
「それで、トリフォノフはどこに行きたいの?」
 ようやくその疑問をスラヴィが口にすると、アクセルはまるでそこで初めて気付いたかのような顔になる。そして、さらりととんでもない事を言い出したのだった。
「ああ、魔導術学院クレプスクルムまで、ちょっとな」


(アクセルは、どうしてクレプスクルムに戻りたいんだろ?)
 現在、一行はマリサにレオンス当ての伝言を残し、ターヤが喚んだニルヴァーナに乗って魔導術学院クレプスクルムを目指していた。かの学院はリンクシャンヌ山脈の中に位置する上、召喚士一族の里からは少し遠い為、彼女を呼ぶ事にしたのである。
 ちなみに、そのせいでターヤは強敵相手との戦闘後くらい疲労してはいるのだが、万全の体調ならば今の自分でも場所を限定せずに彼女を喚ぶ事ができると解り、喜んでいるのも確かだった。

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