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二十九章 拭えぬ過去‐Axel and‐(13)

 だが、そこで耳が誰かの声を捉えた。否、声と言うよりは音だ。魘されているらしき誰かの口から漏れている音だった。どうしたのかと思わずターヤは首を後方に回し、マンスからは少し距離を開けた隣に寝ているオーラの様子がおかしい事に気付いた。
「オーラ?」
 エマのことは頭から抜け落ち、今度は彼女の方が気にかかってくる。腰を持ち上げて立ち上がり、足音を立てないように気を付けながらそちらへと向かう。傍まで行けば、その顔を流れる幾つもの汗が視認できた。
(もしかして、嫌な夢でも見てるのかな……?)
 珍しいと感じながらも、ハンカチを取り出すべくスカートのポケットに手を入れる。
「――っ!」
「オーラ!?」
 瞬間、唐突に言葉にならない悲鳴が上がった為、慌ててターヤはその手で苦しそうに呻いている彼女の肩を掴み、激しく揺さぶった。起こした方が良いと思ったのだ。
 しかし、彼女は意味を持たない叫び声を上げ続けるだけで、ターヤの声さえも届かないようだった。どうしたものかと思い、レオンスならば何かを知っているかもしれないと気付き、そちらを見ようとした時だった。
「……私はっ、貴方達の実験動物なんかじゃない……!」
 突然それまでは意味の無い音を発していただけのオーラが言葉を口にしたかと思いきや、すばやく飛び起きたのだ。
「わっ!?」
 驚いて後方に下がろうとした為に体勢を崩して倒れかけてしまうも、背後から伸びてきた手に支えられる。声はかけられなかったが、何となくエマだと判った。
 叫び声で事態が良くない事を察したのか、皆もまた飛び起きていた。レオンスに起こされたマンスは寝惚け眼を擦っていたが。
 その間にも、立ち上がっていたオーラはその場に前のめり気味の姿勢で立っていた。
「ちょっと、これ、どういう事なのよ……?」
 困惑した様子でアシュレイが問うが、皆はおろかターヤにも判らない。
 しかもレオンスですら答えられないようなのだから、そうなればもう誰にもオーラの現状など掴めなかった。
「オーラ……?」
 レオンスが躊躇いがちに名を呼んだ瞬間、彼のすぐ横を風が駆け抜けていった。続けて彼の頬に赤く細い線が走り、そこから赤い液体が顔を覗かせる。
 これにより、ようやく皆は彼女の纏う雰囲気が異質である事に気付く。
 彼女の目元はピン留めが外された事で前髪の陰となっていたが、その隙間から微かに覗く片目は穏やかなものでも淡々としたものでもなく、まるで鋭く研ぎ澄まされた刃のようだった。ゆらり、とその身体が絶妙な不安定さを保ったままで動く。
「オーラ……?」
 まるで夢遊病者のようなその姿にターヤは強い危機感を覚えるも、レオンスと同じように名を呼ぶ事しかできなかった。


 男性こと《精霊使い》――グィード・ガッツァニーガは、それまで精霊と言うのは生命ですらないと思っていた。人と同じ姿形を取れるが、実際は少しばかり人格が確立されただけの、ただの各〈元素〉を統べる為だけに存在するもの。その程度としか認識していなかった。人工精霊もまた、その紛い物くらいにしか思っていなかった。
 しかし、その考えこそが誤りだった。同じだったのだ、精霊と人は。違うところはあるが、根本的には大差など無い同じ生命だったのだ。
 逃げるようにして戻った〔ウロボロス同盟〕のアジト、その実験室にて、グィードは呆然と立ち尽くしていた。眼前には《鉱精霊》が収容された巨大な水槽が置かれている。それを呆然と見上げながら、今になってようやくその事に気付くとは何とも皮肉な事だ、と自嘲気味に笑う。

 ここに来れば少しは息苦しさを緩和されるのではないかと思っていたのだが、そのような都合の良い事になる筈も無かった。寧ろ《鉱精霊》の姿を見た事で、後悔と罪悪感とが益々加速しただけだ。
 それでも彼は、無意識のうちに口を開いていた。
「……ミネラーリ」
『……ふぁい?』
「!?」
 心臓が、凍り付くかと思った。ばくばくと煩い動悸を何とか収めようと奮闘しながら、はっきりとした視界で《鉱精霊》を見直す。
 彼女はそれまでとは異なり、水の中に漂ったままぐーっと両腕を上へと伸ばしていた。ぎゅーっと力を入れて瞑られた目と合わせ、まるで猫のようだった。そして常に下ろされていた瞼が、ゆるりと持ち上がる。
 その宝石のような瞳を目にした時、グィードは思わず言葉を無くした。綺麗だ、と心の中で呟く。
 眼下に男性の姿を認めた《鉱精霊》は、にこりと微笑んだ。
『こんにちは。初めまして、ですよね?』
 何とも場にそぐわず、また予想ともかけ離れた相手の反応にグィードは戸惑うばかりだ。
 そんな彼には気付いていないらしく、彼女はのほほんとしつつも実質的にはこの場のペースを掌握していた。
『良ければ、名前を教えてくださいます?』
「……グィード・ガッツァニーガっす」
 名乗る事すら躊躇われたのだが、気付けば口から言葉は滑り出ていた。自分は、今現在に至っても尚彼女を監禁し続けている組織のメンバーだというのに。
『良い名前ですね、グィード』
 しかし《鉱精霊》は何の躊躇も嫌悪も見せる事は無く、ほわほわした雰囲気のまま、友人の名を呼ぶかのようにその声で彼の名を口にした。
 ただ、それだけの事だった。
 いつも誰からも呼びやすいからと略されるばかりだった名前を、初めてそのまま口にされただけだった。他者からしてみれば――自分からしてみても、特に何があるという程度の事の筈だった。
 それでも、ただそれだけの事が、彼の胸に響くには――彼の心を動かすには、実に充分すぎたのだ。
 呆けて言葉を失った男性を、女性は不思議そうに眺める。
『グィード、どうかしましたの?』
 自分の名前を呼ばれる事が、ここまで心地が良いなどとグィードは思いもしなかった。
「もう一回、呼んでくれないっすか……?」
 思わず、口からそのような言葉が滑り落ちる。すぐに気付くも、訂正する気は起きなかった。
 一瞬《鉱精霊》は面食らったように両目を瞬かせたが、すぐに表情を正して微笑んだ。
『はい、グィード』
 やはりたったそれだけの事なのに、それでも惹かれてしまう自分が居る事を男性は自覚する。
「ミネラーリ……」
 気付けば、彼女をそう呼んでいた。
 そうすれば《鉱精霊》は嬉しそうに微笑む。
『ミネ、と呼んでくださいな』
 精霊のことはよく解らない部分も多いが、愛称のようなものなのだろうか、とグィードは推察する。次に、呼んでも良いのだろうかと思った。
 だが、《鉱精霊》は期待の灯った表情でにこにこと笑いかけている。
「……ミネ」
 結局、彼は躊躇いがちにその名を口にする選択肢を選んだ。
 すると彼女は、ぱあっと花が咲いたかのような笑みとなって応える。
『はい』
 それを見られた事がどうしてか嬉しくて、再び彼は彼女の名を呼ぶ。
「ミネ……」

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