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二十六章 裏切りの豹‐erosion‐(9)

「何で……」
 そしてターヤは、オーラの防御魔術がいとも容易く壊された事を疑問に感じていた。幾ら彼女が何らかの理由で動けなくなっている上、現在進行形で痛めつけられているとは言え、それだけが理由ではないように思えたのだ。
 そこでふと、一つだけ思い当たる事があった。
(もしかして、この場所が闇魔に力を与えてるの?)
 自分達セフィラの使徒が聖域では有利なように、闇魔にも有利な場所と言うものがあるのではないだろうか。そしてここプレスューズ鉱山は、《守護龍》アストライオスの居たアウスグウェルター採掘所と最奥が繋がっているのだそうだから、彼が闇魔に浸食された理由とも何か関わりがあるのではないだろうか。
 そう考えると、絡まっていた紐が徐々に解けていくように感じられた反面、底知れぬ寒気すら覚えるターヤだった。


 片やアシュレイは、一行がなす術も無く押されている様を――特にターヤやアクセルと言った《世界樹》の加護を受けている者が特に狙われている光景を、ヘカテーに支配権を奪われた身体の中でしっかりと見せつけられていた。闇で構成された頑丈で屈強な檻の中、目を瞑っても拒絶する事のできない映像を眼前に浮かべられて。
(まさか、あたしに闇魔が憑いてたなんて……)
 それと同様、彼女は自身に闇魔が憑いていた事にも、少なからずショックを受けていた。確かに昔から精神的に強い打撃を受け続けてはいたが、深淵からの呼ぶ声を聞いた事も無く、現在のような状況に陥った事も無かった為、無意識のうちに自分は大丈夫なのだと思い込んでいたからだ。
 ああでも、と。極々偶にではあったが、意識が飛んだ事が数回だけある事を思い出す。最近では、アウスグウェルター採掘所で闇魔に囲まれていた筈が、気付けば自分の時だけが止まっていたかのように闇魔は跡形も無く消え失せていた件だ。
(きっと、エマ様はあたしにヘカテーが憑いてる事を知ってたんだ)
 ずっと黙っていてくれた彼の配慮に申し訳無さを覚える反面、教えてくれなかった事への不満もまた生じた。それでも自分の為にしてくれた事だとは解っているので、恨み言を口にする気にはなれない。
 しかし、同時に彼女はある不安を覚えてもいた。
(もしかすると、ニールが浸食されたのは、あたしのせいだったのかもしれない)
 生み出してしまった闇魔を抱えたまま五年も過ごしていたという事は、その間ほぼずっと一緒に居たニールが浸食されているのは自分のせいなのではないか、という結論にアシュレイは至ったのだ。おそらく彼自身にも何かしらの要因はあったのだろうが、傍に上級闇魔の憑いた人物が居たからこそ、あそこまで変わってしまったのだろう。
 自分のせいだったのかと納得すれば、途端に心が落ち着いた気がした。原因が他ならぬ自分であるのならば、何をすれば良いのかなど簡単な事だ。そっと胸に手を当てて、ぎゅっと握り締める。
(ここにあるのはニールに助けてもらった命だけど……でも、あたしが尊敬していたニールはもう居ないから。きっとこれは、あの時の恩返しをしろって事なんでしょうね)
 自嘲気味な笑みを零しながら思い起こすのは、自身にとっては尤も忌まわしい記憶。現状とは異なり、意識は表にいるというのに身体が言う事を聞いてくれない状態で、彼女は視界に映る全てを蹂躙させられていた。止めてと口にしても獣の咆哮にしかならず、そう言ったところで悪夢が止まる訳でもない。
 けれど、そこに光をくれたのはニールだった。暴君の飼い犬として処分されそうになっていたアシュレイを助けてくれた彼は、彼女を護る為に〈契約〉を結んでくれた。ちゃらんぽらんだという事を知った時はかなり幻滅したし、徐々におかしくなっていく彼には不信すら抱き始めたが、それでも彼女にとって、彼は今もまだ命の恩人であり、尊敬すべき対象なのだから。
(あの時ニールが助けてくれなかったら、あたしはきっとあのまま殺されてたから。だから、今度はあたしがニールを助けなきゃならない!)
 強い決意を胸に宿した瞳は、それまでとは一変していた。

(その前に、まずはここから出なきゃいけないわね。このままあいつに、あたしの身体を好きにされてたまるかってのよ!)
 ともかく今は現状を打開しなくてはならないと考え、彼女はどうすれば良いのかと思考をフル回転させる。もしや自分の思考はヘカテーに筒抜けなのではないかと一瞬ひやっともしたが、理由が何であれ、一向に気付かれる事も妨害される事も無かった。
(この檻から出るにしても、これだけ硬いと蹴るくらいじゃ壊れそうにないわね。精神の中だとレイピアも無いみたいだし……困ったわね)
 けれども、身体の主導権を取り返せそうな方法は何一つとして思い浮かばない。気迫や思いの強さだけでどうにかなるとは思えないし、アシュレイ自身も気付かぬうちに誕生していた闇魔の力は、今や宿主たる彼女すら上回っているのだから。
 ただし、先程オーラが自身の〈マナ〉をアシュレイの身体に注ぎ込んだ際、ヘカテーの支配は大きな揺らぎを見せていたようだったと彼女は記憶している。とは言え、その時の彼女は混乱する思考を落ち着かせて纏めるのに必死だったので、そこまでは考えられなかったのだが。
(とにかく、もう一度この檻さえ揺らげば……)
 そこまでは至れるも、頼みの綱のオーラは何事か異変が生じているらしく、依然として抵抗もせずに蹴られたままだ。
 他に同じ方法が行えそうなターヤとアクセルは、確かに《世界樹》の加護を受けているが、《神器》と同じくらいの効果が期待できるのか、そもそも〈マナ〉の受け渡し自体ができるのかと考えてしまうと、彼らに頼むのは躊躇してしまう。
 やはり手詰まりなのかと思い、別の案を探そうとして、
「!」
 オーラと、目が合った気がした。彼女はうつ伏せに近い体勢で蹲っているので顔全体は視認できなかったが、地面に垂れ下がった髪の間から見えた瞳には強い意志が宿っていた。
 これならいけると直感的に脳が叫び、考えるよりも速く声が口から飛び出す。
「オーラァ!」
 それだけで、彼女には十分だった。
 どのようにして声が届いたのかアシュレイには解らなかったが、名を呼んだ瞬間にオーラは自身を甚振り続けていた足を掴んで止め、相手が虚を突かれたと同時、即座に顔を上げて立ち上がった。そのまま心臓部分に再び触れ、これまでの仕返しとばかりに一気に〈マナ〉を流し込む。
「!」
 慌てて身を引こうとしたヘカテーだったが、やはりその手はまるで吸い付いているかのように離れなかった。

 同時にオーラの表情は隠しきれない苦悶に歪んでいたが、それでも今度は手を離さなかった。まるで意地だけで動いているかの如く、誰の目にも明らかな程に強い〈マナ〉が、相手の中へと注がれていく。
 そのようにして再度〈マナ〉の注入が行われれば、予想通り檻が揺らぐ。
(今だ!)
 その好機を見逃さず、アシュレイは力の限りに檻を蹴破るや駆け出した。前方の映像に辿り着くや否や、それもまた力任せに蹴り飛ばす。
 瞬間、空間そのものを粉々に破壊したかのような感覚に陥ると同時、悲鳴のような声が聞こえた。同時に、彼女は映像があった場所から入り込んできた光に包まれながら目を閉じる。
 そして、光が収束して消えたと感じたので瞼を押し上げてみれば、そこは見紛う事無き現実だった。後方に居る皆を見て、正面に居るオーラと一瞬だけ目で会話をして、それから背後へと向き直る。
 そこには、初めて目にする一人の女性が居た。ふらつく身体で何とか立ちながら、苦しそうで悔しそうな形相を浮かべ、まっすぐにアシュレイを睨みつける女性だった。その病的なまでに色の無い肌と暗黒の髪に目に服装という容姿から、彼女こそが『ヘカテー』なのだと瞬時に理解できた。
「よくも、あたしの身体で好き勝手してくれたわね」
 相手に対する怒りを隠さず、ようやく身体を取り戻したアシュレイは、自身の前に立つ闇魔を射殺せそうなくらい鋭く睨みつけたのだった。
「この借りは、大きすぎるわよ」

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