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二十六章 裏切りの豹‐erosion‐(4)

「アシュレイ、こっちだ!」
「違う、こっち」
 急激に上昇した速度でマフデトと付かず離れずの距離を保ちながら、四方八方へと変則的に移動するレオンスとスラヴィは、時おり声を上げて相手を混乱させようと目論む。
 それでも未だ彼らの策には屈していないマフデトだったが、次第に翻弄されつつある事は誰の目にも明らかだった。
「――〈速度上昇〉!」
 しかも更なる速度がレオンスに付加された為、彼は当初の二倍以上の速さで瞬間移動をするかの如くさまざまな方向へと移る。それは皮肉にも、人型時の彼女と同等の速度だった。
 片方がいきなり速くなった為か、一瞬マフデトの動きが止まりそうになる。
「うおらぁぁぁぁ!」
 それを見逃さず、アクセルは大剣の峰をマフデトの後ろ足へと思いきり叩き込んだ。
 瞬間、獣の悲鳴を上げて、攻撃を食らったマフデトはがむしゃらに暴れる。巻き込まれないようにと四人が一旦距離を開けた隙に、豹は誰も居ない方向へと跳び退った。
「まだあっちの方が速いみたいだな」
 どこか笑みを残しながらも苦々しげにレオンスが言った時だった。
「――〈風精霊〉!」
 声と共に突如として発生した風が渦巻き、瞬く間にマフデトの周囲を覆う。気付いた豹は逃れようと再び暴れるが、その傍まで来ていた《風精霊》の風を操る力の方が上手だった。それでも尚抵抗は止まない為、このままでは埒が明かないと踏んだ巨鳥はマフデトをなるべく高く持ち上げてしまう。そうなれば足場は不安定になる訳で、大きくバランスを崩されて思うように身動きが取れなくなった豹の抗いは、極端に弱まった。
「やった!」
「後は眠らせるだけ」
 自身の思い通りの状況にできた事と、彼女をなるべく傷付けずに済んだ事にマンスは歓声を上げ、スラヴィは彼とは反対側の後方に居るターヤを見た。
 彼女は今、スラヴィにもかけようとしていた支援魔術はマンスの意図を知ってすぐに止め、全力で早口の詠唱を紡いでいた。
「『意識を沈めるまどろみを以て』――」
(わたしが、アシュレイを止めなきゃ!)
「――『彼の者を眠らせよ』!」
 下ろされていた瞼が即座に押し上げられる。杖の先端は一直線に豹へと向けられていた。
「〈睡眠付加〉!」
 気合の籠った声が空間内に響き渡ると同時、マフデトの動作が更に緩慢になっていく。その眼が開閉を繰り返すようになり、ターヤはほっと胸を撫で下ろした。
「いえ、まだです!」
 だが、何事かに気付いたらしきオーラが悲鳴にも似た声を上げる。
 皆が驚いたように彼女へと視線を動かした瞬間、唐突に風が霧散した。
 え、と間の抜けた声を発したマンスの目の前で、活動を再開したマフデトの鋭利な爪が《風精霊》を襲う。咄嗟に反応するも、逃げきれずに何度も切り裂かれる事となった巨鳥は、遂には強制的に精霊界へと帰されていった。
 これには命に別状は無いと解っていてもマンスの目が見開かれる。
「シルフ!」
「おい、何がどうなってんだよ!?」
 アクセルはすぐにエマを見るが、彼もまた驚愕の表情でマフデトを見上げているだけだ。彼は軽く放心した様子で独り言のように呟く。
「《風精霊》の拘束も、ターヤの魔術も問題は無かった筈だ。ならば、なぜ――」
「とにかく、もう一度動きを止めないとな。ターヤ、俺を強化してくれ!」
 二人を叱咤しターヤに指示を飛ばすと、レオンスは再びマフデトへと向かっていく。

「うん! ――『動きを補う風となりて』――」
 反射的に頷いて、ターヤは同じ支援魔術を詠唱し始める。
 スラヴィもまたレオンスに続いて、再度マフデトの混乱を招くべく行動を開始する。
 けれど、皆の予想は大きく裏切られる事となった。
「「!?」」
 それまでは目視できる速度しか出さなかったマフデトの姿が、瞬時に掻き消えたのだ。
「レオン!」
 やばいと思った時にはエマは叫んで駆け出しており、無防備に晒される事となったレオンスの背中と、今にもそこに襲いかからんとしていた豹の爪との間に割って入っていた。
「っ……!」
 何とか攻撃を盾で受ける事には成功したものの、あまりに強い一撃だった為に吹き飛ばされてしまい、彼もろとも地面に叩き付けられる。
「っ!」
「ぐぁっ……!」
 エマはまだしも、彼の下敷きとなる形で顔から衝撃を受けたレオンスは呻き声を上げた。
 突然の事態に驚いたマンスは詠唱を止めてしまい、詠唱を途中で止められなかったターヤの代わりにオーラがすばやく魔導書を構える。
「エマ! レオン!」
「〈防護幕〉!」
 アクセルが叫んだのと、どこか冷静さを欠いているような彼女の防御魔術が発動したのはほぼ同時だった。
「――〈速度上昇〉!」
 やや遅れてターヤの支援魔術も発動し、こちらは対象がスラヴィに変更された。
 一気に加速したスラヴィは今し方のマフデトの高速な動きを警戒し、背後を取られず隙を探すべく慎重に行動する。エマとレオンスから相手の注意を逸らす役割も、そこにはあった。
 しかし、本気のマフデトには付け焼刃の速さなど通用する筈も無かった。
「スラヴィ!」
 焦ったターヤの声で彼が背後に視線を動かせば、そこには既に大口を開けて肉薄する豹が居た。
「〈結界〉!」
 身体は振り向かせずに手だけを伸ばして叫んだ直後、透明な壁に牙が衝突する。押されるような重い感覚に後押しされて、スラヴィはそのまま背から倒れていくが、〈結界〉が壊れる事は無かった。
 その事にターヤは安堵する。
 けれども、気付けばアクセルもオーラにより〈防護幕〉の中に避難させられていた為、これで前線組は全員が防御魔術の中に守られる事となっていた。そうでもしなければマフデトの爪と牙の餌食になっていたからである。
 無論、それは後衛組にも言えた事であったが。
「いきなり速くなるなんて……」
「いえ、これが彼女の本来の速さです。今までは加減してしまっていたのでしょう」
 ぽつりと呟いたマンスにはオーラの解説が入る。そこで彼女に対する気まずさを思い出した少年だったが、少女は気にせず身体の向きを回転させて向き直ってきたので驚いて後退しかけるも、直線的に向けられた目に宿る力がそれを許さなかった。
「カスタさん、今から私が行う事を、貴方には見ていてほしいんです」
 そして、彼女の息を一時的に止めます、と黒衣の少女ははっきりと口にした。
 淡々と告げた彼女の言葉が意味するところを、少年はすぐには理解できなかった。否、したくなかった。
 だが、皆はマフデトに対する注意で意識の大半を占められているからか、彼女の発言には誰の指摘も反論も飛んでくる事は無く、また気付く者も居ない。
 故に、マンスは自ら彼女と向き合わねばならなかった。
「おねーちゃん、何を言ってるの?」
 理解した頭で、けれど理解したくないと主張する頭でマンスの様子は回される。訝しげな、けれど否定ほしいと言うかのような顔と声で、少年は振るえるように問うた。

ライズスピード

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