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二十六章 裏切りの豹‐erosion‐(3)

「んー? あれ、ユベールくん、居たんだ~」
 声をかけると、それによって初めて気付いたと言わんばかりにニールはユベールを見た。
 実に失礼な言いようだが、今はそこなど気にならなかった。ユベールには、彼にどうしても問いたい事があったからだ。
「なぜ、スタントン准将を追い詰めようとするのですか?」
「あれー? ユベールくん、あっちゃんのことは嫌いなんじゃなかったっけ~?」
「それは幾ら許可を貰えたからとは言え、彼女が《元帥》に部下として適切な態度を取らないからです」
 いつもの態度ではぐらかそうとする上司に内心では呆れを隠さず、けれど一旦間を開けて呼吸を整える。
「私が問いたいのは、なぜクンスト橋を落とし、アジャーニ中将を焚きつけてまで、スタントン准将を追い詰めようとしたのかという点です。命令に従わないだけならば、召還や通達という手段があった筈かと思いますが」
 本題を全て口にし終えた瞬間、ユベールは更なる緊張に襲われた。もしも自分にもその矛先が向いてしまったら、という嫌な想像が思考を回る。
 しかし、ニールは少しだけ驚いたような顔になっただけだった。
「あれ、ユベールくん、そこまで調べたんだ~」
「はぐらかさないでください、《元帥》」
 その事にそっと安堵しながらも追及の手は止めない。どうしても、彼を尊敬する一人の部下としてその理由が知りたかった。
 真剣な表情の部下を見たニールはへらへらとした笑みを消し、視線をあらぬ方向へと向けた。
「最近のアシュレイはね、わつぃの好きな《狩猟豹》じゃないからだよ」
 彼の言っている意味がユベールには全くもって理解できなかった。
「わつぃはね、あの頃のあっちゃんが好きなんだ。だから」
 しかし上司は気にせず、再び彼の方へと顔を向ける。
「あっちゃんには、いいかげん《狩猟豹》に戻ってもらわないと、ねぇ?」
 そうして、壮絶な嗤いを湛えた。
 その笑みに、ユベールは背筋を悪寒が駆け抜けるのを感じた。声すら上げられなかった。最初から彼に対して抱いてきた憧憬と忠誠心とが、崩壊の前兆の如く揺れ動いた気がした。
「さて、と。そろそろ出ないとあっちゃんとの待ち合わせに遅れちゃうし、わつぃ達も行こっか~」
 すっかりと硬直してしまった部下は気にせず、ニールはゆっくりと起き上がって普通に腰かける姿勢になったかと思えば、そのままひょいとソファから飛び下りた。
 これには硬直から解き放たれ、驚くユベールである。
「私も、ですか?」
「うん、だって知っちゃったんだから、補佐としてついてきてくれるよね?」
 返された答えは至極当然な理由だった。
「……了解しました」
 これに対してユベールは染みついた習慣により、無意識のうちに肯定の意を述べてしまう。
 けれどもそちらはもう気にかける事も無く、ニールは目的地の方向へと視線を動かして、とても楽しそうに嗤うだけだ。その瞳にも脳内にも、今は一人の少女しか映ってはいなかったのだから。
「アシュレイは、必ず最後はわつぃの許に戻ってくるって決まってるんだよ」
 それは、この場には居ない人物達へと向けた牽制だった。


「『Lo promette solamente』!」
 少女の叫びと共に放たれた眩い光が、全員の視界を奪う。
 反射的にその場に居た全員が目元を覆って目を護り、光もまたすぐに収まったが、それと同時に瞬間的に威圧感溢れる気配がその場全体に浸透した。ターヤやマンスでさえも肌で感じ取れてしまうくらいの強さだった。
 何事かと盾にしていた腕をどかした一行が目にしたのは、少女が居た筈の場所に鎮座する、一頭の巨大な豹だった。ただし動物としての豹とは異なり、爪と牙は鋭く、全身からは威圧感が滲み出ている。

「「!」」
「豹の魔物《マフデト》ですか」
「アシュレイ……!」
 皆は反射的に警戒し戦闘態勢に移行しようとするが、眉を顰めたオーラの呟きとエマの苦々しい叫びにより、知らなかった者も信じたくはなかった者も嫌でも思い知らされる。
 眼前に佇む豹の魔物は、紛れも無くアシュレイ本人なのだと。
「おねーちゃん、魔物だったの……?」
「だから、あの時ラタトスクは彼女を『同類』と呼んだんだな」
 事実を理解したマンスは震える声を紡ぎ、レオンスは世界樹の街での彼女と栗鼠の魔物とのやり取りを思い出し、スラヴィは黙り込んでいた。
「アシュレイ……くそっ!」
 アクセルの悔しそうに呟くと同時、マフデトが雄叫びを上げた。
「来るよ!」
 すばやくスラヴィが叫びながら構えれば、他の面々もまた割り切って武器を手にする。エマとアクセルも苦渋そうに彼に倣っていたが、ターヤとマンスはすぐにはそれができなかった。幾ら外見は魔物と化したとは言え、相手はアシュレイなのだと認識した為に自制心が働いてしまっていたからである。
 しかし正気を失いかけているらしきマフデトは、容赦なく一行へと襲いかかってきた。
 これに対し、一行側からはレオンスが先陣をきって飛び出していく。彼は高速で何度も襲いくる爪を何とかぎりぎりのところでかわしながら、普段ならば彼女が担当する筈の囮の役目を担っていた。
 その間にもアクセルとエマとスラヴィが前線に到着し、我に返ったターヤとマンスは慌てて武器を手に取り詠唱を開始する。
「『漲れ力よ』――」
「『風の化身よ』――」
 そんな少年の盾になるかのようにその前に立つオーラは、離れた位置に居るターヤの方にも気を配りつつ、マフデトの一挙一動を注意深く見守っていた。
 彼女の目線の先では、巨大な豹と対照的に小さな人々との戦いが繰り広げられている。レオンスとスラヴィが最大限に動き回って相手を撹乱しようとし、アクセルとエマは互いの隙を補い合いながら、逆に相手の隙は見逃さずに攻撃を行っていた。
 しかし、流石に一筋縄でいく相手ではない。撹乱しようにも引っかからず、攻撃しようにも確実に当てるのは許さず、けれど自身はその鋭い爪で小さな敵を狙おうとする。
 四対一と数上では一行が有利かに思えたが、実際は彼らの方が不利な状況下にあった。
 ただし、マフデトをターヤやマンス達の居ない方向へと誘導できたのだけは成功と言えた。とは言え、そこにもマフデト自身の意志があったように思えた前線組ではあったが。
「くそっ、アシュレイの奴、敵に回すと恐ろしいな! どうにも速度まで上がってるみてぇだしよぉ」
 そのような状況下故、一向に自らの攻撃は通らない事に業を煮やしたアクセルは悪態をつく。
「しかも〈獣化〉したアシュレイには体力もあるからな。おそらくは長期戦になるだろう」
「げっ、マジかよ!?」
「――〈能力上昇〉!」
 神妙な面持ちで発されたエマの補足にぎょっとしたところで、ようやくターヤの支援魔術が発動した。
 全身が一気に力で満たされたような感覚になると同時、アクセルは再び攻撃へと転じる。
 レオンスとスラヴィにも効果を付与していたそれは彼らのスピードをぐんと加速させ、当初の目的までは果たせずともマフデトの動きを若干にぶらせる効果はあった。
「――〈風精霊〉!」
 そこでマンスの詠唱も完成し、風を纏った巨鳥が姿を現す。
「『風の化身よ』――」
 続けて制限解除の方に移った少年の遥か前方の戦況は、先程までとは一変していた。

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