The Quest of Means∞
‐サークルの世界‐
二十六章 裏切りの豹‐erosion‐(1)
夢を、見た。
どこかの一室で、誰かと話している夢。隣り合って椅子に座り、楽しそうに何事かを話している夢。相手の容姿も表情もぼやけて掴めないというのに、どうしてか相手には優しく見護られていたのだと知っている夢。
時期がいつなのかも、場所がどこなのかも、相手が誰なのかも解らなかったが、それが自身の記憶であるという事は確信できた。
それはきっと、始めて目覚めても覚えていられた、自身の世界での記憶なのだろう。
例え、途中で切断されてしまった夢だったとしても。
「――アシュレイ? ねぇ、アシュレイ?」
最早何度目になるかも解らない呼びかけをターヤは行うが、自身の右手を引く彼女からの返答は未だ無い。
朝方早く、夢の最中に叩き起こされたかと思いきや、まるで操り人形のような表情をしたアシュレイに強引に宿屋から連れ出されたターヤは今、彼女に腕を引かれるがままにどこかへと向かっていた。何度も立ち止まって踏ん張ろうとはしたのだが、同じ女性とは言え身体能力は一般人なターヤが軍人に敵う筈も無く、ずるずると今もまだ引っ張られている。
(アシュレイ、本当にどうしちゃったの?)
起こされた時から変わる事の無い虚ろな瞳に、ターヤは彼女が彼女ではなくなっているような気がしていた。
しかし、その理由が解らない。確かに、一昨日のムッライマー沼での一件からアシュレイの様子はおかしかったが、だからと言って今日になってこのような行動に出る意味も、生気の感じられない顔付きになっている意味も理解できなかった。
(まるで、無理矢理心を押し殺そうとしてるような……)
強制的に足を動かされながらも思考は絶え間なく動かしていたターヤだったが、唐突にアシュレイが動きを止めた為、その背中に顔を思いきりぶつけた。
「へぶっ」
ぶつけた所を空いている方の手で押さえながら顔を戻し、思わず相手の顔色を窺う。
だが、アシュレイはその事にすら気付いていないようで、懐から何かを取り出していた。それは通信用魔道具のようで、彼女はすばやくそれを弄ると口元に近づける。
『――はい?』
「こちら、アシュレ――」
そこから知らない誰かの声が聞こえ、アシュレイがそれにひどく平淡な声で応えようとした時、ターヤは反射的にその魔道具を振り払うようにして彼女の手から離させていた。直感的に、連絡を取らせてはいけないと思ったのだ。
軽く弧を描いて飛んだ魔道具は少し離れた場所に叩きつけられる事となり、それが原因で壊れたのか通信はぶつりと途切れる。
魔道具で通信しようとした姿勢のまま固まっているアシュレイの前面へとターヤは回り、その顔を覗き込む。
「ねぇ、アシュレイ? 本当にどうしちゃ――」
ぱんっ、と小気味良い音がした。
何をされたのかターヤはすぐには解らなかったが、気付いた時には、身体を横側から地面に叩きつけられたような体勢になっていた。その痛みに次いで、左頬が一気に熱を持ち出す。叩かれたのだと理解すると同時、顔が先刻まで傍に居た少女の方へと持ち上がる。掴まれていた手は既に離されていた。
「あ、ごめ……」
彼女はそこで我に返ったような、驚きと後悔と申し訳無さとがごちゃ混ぜになった、今にも泣き出しそうな表情をしていた。その視線がターヤから、まるで自分の物ではないと言うかのように自身の右手へと動く。
その様子から、ターヤは何となく察しがついたような気がした。
「ねぇ、アシュレイ」
ゆっくりと立ち上がりながら声をかければ、びくりと彼女の肩が揺れた。普段とは逆だと感じながら、思ったままを口にする。
「もしかして、一昨日から様子がおかしかったのは、これが原因だったの?」
「!」
見開かれた目が肯定の意を物語っていた。
やっぱりか、とターヤは思う。そして理由の如何は未だよく解らなかったものの、全く事態を捉えられずに呑気な事を考えていた昨夜までの自分を密かに呪った。しかしいつまでもそうはせず、更に質問を投げかける。
「これが、《元帥》がアシュレイに出した命令なんだよね?」
またしても、相手は無言だった。
こちらも肯定と受け取って、ターヤは本当に訊きたかった――先程ぴんと来た点を問う。
「でも、アシュレイは、本当はこの命令には従いたくないんだよね?」
今度も無言かと思いきや、再び相手の肩が跳ねた。そのまま口が動こうとするかのように開かれるが、躊躇するように一旦噤む。それでも何とか言葉にして伝えようとするように開きかけ、けれどまた閉じるという動作を何度か繰り返した後、ようやく観念したようにアシュレイは音を発した。
「……ええ、そうよ」
喉の奥から引っ張り出してきたような声だった。
推測が当たったと思う反面、それならばなぜ、現在このような行動を取っているのかがターヤには解らなかった。先程までは操り人形にも見えた様子は、今は影も形も無い。
「じゃあ何で――」
「あたしはニールの『命令』には逆らえないからよ」
遮るようにして相手が紡いだのは、達観したような声だった。
「けど、あんたなら何とかしてくれそうな気がしたの。だから、命令の効果もあったけど、それが一時的に切れた今もこうしてるのよ」
続く予想もしていなかった発言を受けて、思わずターヤは目を瞬かせた。
「昨日、あんたは採掘所で《神子》の固有魔術を最終段階まで使ってみせたし、ニルヴァーナまで召喚してみせた」
「でも、それはあの場所だったからだよ。あそこは〈マナ〉の濃度が高い聖域だから」
「その後、世界樹の街から戻ってきた時のあんたは、何かが吹っ切れたみたいに強く見えた。あたしには、救いに……最後の希望に見えた」
ターヤの訂正には応えず、アシュレイは続けていた。
自分としてはそれ程変わったとも思わなかったターヤだが、よほど精神的に参っていたらしき彼女には、それ以上の存在に見えたようだ。
「だから、あたしは――」
そこまでで彼女の言葉は途切れた。まるで、これ以上は言えないかのように。
だが、ここまで素直に心情を吐露されると、あのアシュレイがと驚きながらも、ターヤには事態を何となく察する事ができていた。
今現在、アシュレイはどうしようもない心理状態に陥っているのだ。《元帥》との間に何があるのかは知らないが、彼女は彼には物理的に逆らえないらしい。だからこそ、今こうしてターヤを連れ出しているのだ。けれども、そんな自分を止めてほしいとも思っているからこそ、ターヤに正直な思いを明かした訳だ。
理解できると、途端にターヤの中では余裕ができてきた。そして彼女に対して僅かながらにも抱いていた疑問や不安といった感情が霧酸する。思わず微笑みが零れた。
「やっぱり、アシュレイは年下なんだね」
「いきなり何よ」
笑われたと思ったのか、彼女の表情が拗ねる。
大分元の彼女に戻ってきているのだと解り、ターヤは内心で安堵した。
「だって、いつもはアシュレイの方が大人っぽいからそれに慣れちゃってたけど、一応、わたしの方が一つ上だから。今だけでもお姉さんぶれて嬉しいな、って思ったの」
「あんたって、やっぱり変な奴よね。けど、あたしはそういうところが――」
そこまで言いかけて、しかし我に返ったように彼女は口を噤んだ。