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二十三章 苦悩の正者‐fault‐(6)

「メイジェルさん?」
 どうしたのだろうかと横から前へと首を動かすようにして顔を覗き込み、その表情に驚愕した。
 メイジェルの顔からはすっかりと覇気も明るさも抜け落ちており、蒼白になっていたのだ。両腕は完全に力が抜けたらしくだらんと垂れ下がっており、寧ろ立っているのが不思議なくらいの様子だった。
「メイジェルさん、どうしたんですか?」
 やはり答えは返ってこなかったが、何かあったのだろうとウィラードは推測する。
「とりあえず、酒場まで行って暖かくした方が良いと思います。ここに居たままだと風邪をひくかもしれないですし」
 現状のままこの場所に留まり続けるのは的確ではないと考え、ウィラードはメイジェルを促す。返事は無いと最初から解っていたので、多少強引に引っ張るかのように連れていく事にした。
 幸か不幸か、彼はその時自分が普段の気弱さとは真逆の態度を取れている事に気付きはしなかった。


「うー、くさいー」
「何て言うか、凄い臭いだね……」
 きゅーっと目を閉じ眉根を寄せて鼻を摘んでいるマンスに、おおよそ女子とは言えないくらいに顔を顰めて唖然としているターヤは同意した。
 水の町ヴァッサーミューレを後にした一行は、レオンスの行きたい場所を目指して[ムッライマー沼]へと足を踏み入れていた。
 だが、案の定『ごみ溜め』の名を冠せられてしまっている沼には異臭が漂っていたのである。その原因は、沼に無造作に捨てられているごみの山だった。粗大ごみや生ごみどころか死体すら不法投棄されているのではと言われる程で、五年前くらいから積もりに積もったそれらが腐敗臭やら何やらを発しているらしい。
 無論〔軍〕は対処しようとしたのだが〈軍団戦争〉で被った損害は大きく、犯罪者への対処や突如として掌を返した〔騎士団〕への対応などもあり、そちらまで手が回らなかったのだ。その結果がこれである。
「ったく、何でこっちをごり押ししたんだよ?」
 二人程ではないにしろ嫌そうな顔をしたアクセルがアシュレイへと視線をやった。
 申し訳ない気持ちはあるようで、彼女は気まずそうにあらぬ方向を見ている。
 目的地までの先導を引き受けたのはレオンスだが、こちらを通る事を主張したのはアシュレイだった。理由は言わずもがな、もう一つのルートが[グライエル荒野]の近くを通るからだ。よほど、あの場所に近寄りたくないのだろう。
 ちょっぴりこの野郎とも思ったが、彼女にとってはそのくらいのトラウマになっているのだろうと考えて、それ以上は言わないでやるアクセルだった。
 グライエル荒野とは、五年前の〈軍団戦争〉にて主戦場となった場所であり、最も双方の死傷者が多かった場所でもある。元は緑の生い茂る草原だったそうだが、戦火によって今では荒れ地と化していた。
 ロヴィン遺跡でのフローランとのやり取りを思い出すに、どうもアシュレイはその戦争に参加していたらしい。おそらくはその際、荒野でトラウマになるような事態を経験しているのだろうとアクセルは推測していた。
 そしてそこまでは至れなかったが、アシュレイがおかしい事にはターヤもまた気付いてはいた。
(アシュレイ、そんなにあっちの方を通りたくないのかな?)
 薄々彼女が南大陸のとある場所を避けようとしている事には勘付いていたので、そうなると次はそこがどこなのかと言う点にターヤの思考は向いていた。とは言え、彼女の目の前で地図を取り出すのはどうにも気がひけたので、必死になって頭の中に地図を思い浮かべながら考える。
(えっと、最初は確か古都の方に行く時で……街道を通る方じゃなくて、海底洞窟を行こうってなったんだっけ。それで次はペリフェーリカに行く時に、元来た方からじゃなくて砂漠を通ってく事になったんだよね)
 前者は昨日今日の事ではなかったので、思い出すのには少しだけだが時間を要した。

(で、今回は荒野の脇か沼の中かって選択肢だったから……えっと、鍾乳洞とヴィントミューレと、風穴と沼の間くらいって事になって、そこにあるのって……確か、街道とグライエル荒野、だったっけ?)
 脳内で疑問符を浮かべたところで答えてくれる者が居る筈もないのだが、それでも脳内地図で地理を把握しようとしているターヤには確信が持てなかったのである。
 しかし、ここまで情報を来てもターヤはぴんと来なかった。
(えっと、街道……は想像できないから、荒野の方かな? あそこって何が――)
「そう言えばおまえ、何で本名を名乗らねぇんだよ? 別に隠す程の事でもねぇんじゃねぇの?」
 しかも、熟考する前にアクセルがマンスへと向けた問いの方が気になってしまい、そちらに意識を移されてしまう。
 言われた方の少年はと言えば、ちゃんと理由があるんだからとばかりに眉根を寄せ、唇を尖らせていた。
「みんなを殺した犯人がどんなやつかも解らないし、もしかしたら、おとーさんとおかーさんのことを知ってて殺したかもしれないんだから、本名を名乗るのは危険だって言われたんだよ」
 少年の言葉を聞いたレオンスが不思議そうに、けれど確認するかのように首を伸ばして口を挟んだ。
「言われたって、いったい誰にだ?」
「ぼくの親代わりの人だよ」
 それ以上マンスは何も言わなかった。
 さりげなく彼らの近くに寄ったターヤもまた会話に参加する。
「そうなんだ。それにしてもマンスのことだから、てっきり女の子みたいな名前が嫌だからなのかと思ってたよ」
「!」
 半分真実半分冗談めかして内心では謝りつつも言ってみたターヤだったが、マンスはどうして解ったのと言わんばかりに顔色を変えた。
 それを目敏く見逃さなかったアクセルが、途端に意地の悪い笑みとなる。
「お、何だ、図星なのかよ?」
 いつものように怒って反発するかと思われたが、予想に反して少年は恥ずかしそうに顔を俯けた。
「だ、だって……。で、でも、おとーさんとおかーさんから貰った名前だから大切だよ?」
 だが、すぐに顔を持ち上げて必死になって釈明する。
 そんな彼を、可愛いな、とターヤはこっそり胸中で微笑ましく感じていた。
 そのように思われているなどとは知らず、再び少年は顔を下方に向けてしまう。
「ただ、やっぱり恥ずかしくて……」
「つまり、その理由もあるという訳なんだな」
 素直に顔を真っ赤に染めてしまったマンスを見て、レオンスはようやく苦笑したのだった。
「「!」」
 と、そこで皆が一転して警戒態勢を取った。
 その代わりようにターヤとマンスはついつい驚く。
「どうしたの?」
「向こう側に立ってる奴が居るのよ。あからさまに殺気を放ってきてるし、だいたい顔を見れば納得できる相手ね」
 問えば、面倒くさそうにアシュレイが答えてくれた。枯木などの障害物もあるのでターヤには人影すら見えなかったが、どうやら眼の良い彼女には相手の顔まで見えているようだ。
 間を取って、誰かが居る事は解っても顔までは見えないアクセルは続けるように訊く。
「誰なんだよ?」
「〔暴君〕の《執事》よ」
 嫌そうにアシュレイが答えると同時、前方から何かが飛んできた。
 ターヤがぎょっとする傍ら、眉一つ動かさずにアシュレイはそれを右手の人差し指と中指とで挟み込んで止めた。そしてその物体を見て、呆れたように呟く。
「全く、いきなりナイフを投げつけてくるなんて、いったいどんな神経をしてる訳?」

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