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二十二章 悪夢は廻る‐machine‐(3)

 二人が玄関から短い廊下を通り抜けて居間まで到着する頃には、既にイーニッドはテーブルに二人分の茶を用意し終えて、自身もまたその前に腰を下ろして寛いでいた。ターヤの姿を目にとめると、彼女はそのまま視線を茶の入ったコップへと移す。
「何をしておる、とっとと座らんか。せっかく淹れた茶が冷めてしまうではないか」
 言われるがままに二人はテーブルの前に座り込み、各々コップを手に取った。そして遠慮がちに口に含む。
 イーニッドもマイペースに茶を啜った為、三人の間に会話は生じなかった。
(ど、どうしよう。スラヴィに勢いであんな偉そうな事言っちゃったんだし、ここはわたしが何とかきっかけを作るべきなんだとは思うけど……は、話しづらい)
 コップの縁に口をつけてちびちびと茶を飲みながら、ちらちらとターヤは眼前の老女の様子を窺う。しかし何を言えば良いのか解らず、場の空気も重苦しいので、どうにも会話を始めるきっかけは作り出せなかった。この時スラヴィと彼女の事で脳内がいっぱいになっていたターヤは、すっかりとジーンから預かっていた本の事を忘却していたのである。
 スラヴィはスラヴィでターヤ以上に頭の中が大変な事になっているらしく、口を開くどころではない。コップに一度は口をつけたものの、すぐに机上に戻してしまっていた。
(な、何とかまずは雰囲気を和らげないと! で、でも、何を言えば……)
「それで、妾に用があるのではないのか?」
 だがしかし、予想外にもきっかけを作ってくれたのはイーニッドの方だった。
 これを逃す手は無いとして、すぐさまターヤは便乗する。
「あ、うん、そうなの!」
「何用かの?」
「あ、えっと……」
 ちらりとスラヴィを見る。彼は先程から同じ姿勢のままだった。
 二人を見たイーニッドは呆れたように小さく溜め息をつく。
「用が無いのならば、お引き取り願えるかの?」
「え、ちょっと待っ――」
 慌てて制止しかけたターヤの腕を掴むものがあった。驚いて振り向いた彼女の視界に居たのは、それまでは人形のように微動だにしていなかった少年だった。
「……イーニッド」
 ここに来てようやく、スラヴィが彼女の名を呼んだ。
 そこでようやく、イーニッドもまた彼の方を向く。
「……スラヴィ」
 二人して躊躇と遠慮がありありと感じ取れる呼び方をするものだから、ターヤは現状も一瞬忘れて、似た者同士だな、と呑気に思ってしまった程だ。
 けれども、互いに名前を呼び合ってから会話にはならなかった。スラヴィは何かを言おうとしているようなのだが口火を切る踏ん切りがついていないらしく、イーニッドは彼から話を初めてくれるまで待つようだ。
 と、それまでターヤの腕を掴んでいたスラヴィの手が離れた。それに気付いて視線を移したターヤが見たのは、遂に彼女と対面する決意を固めた彼の姿だった。
「イーニッド、聞いてほしいんだ」
 老女は応えなかったが、耳は傾けていた。
 そこを確認し、ひとまず内心で安堵してからスラヴィは続ける。
「まずは……約束を忘れていて、本当に、ごめん。言い訳になると思うけど、俺は《記憶回廊》になった時に、生前の記憶を全部封印される形になっていたんだ。だから、ヴィラで君を見た時も、すぐには気付けなかった。……本当に、ごめん」
 ぎゅっと目を瞑ってスラヴィは座った姿勢のまま、まるで土下座するかのように深々と腰から頭を下げた。
 相手は、それでも無言のままだ。

 これだけではまだ足りなすぎる事を解っていたスラヴィは話を終わらせない。
「だけど、あそこで君の姿を見た時から、ずっと引っかかっていたんだ。ようやく思い出せた時には、どうしたら良いのか解らなくなった。約束より二百年も待たせてしまったから、それを考えると君に会うのが怖くて仕方なかった。けど、本当は、俺はずっと君に――」
「それならば!」
 最後までスラヴィには言わせず、途中で遮るようにしてイーニッドが叫ぶ。
 思いがけぬ横槍にスラヴィは黙るしかなかった。
(に、二百年って、今聞こえたような……?)
 理解の遥か上を行く発言に両目をぱちくりと瞬かせるターヤになど気付かず、話を妨害したイーニッドはと言えば、すぐには続きを言葉にはしなかった。

 スラヴィもまた、彼女の言葉で決意が萎んでしまったのか口を開こうとはしない。
「……どうして、妾を忘れておったのだ」
 時間をかけてようやく紡ぎ出された返答は、無理に奥から引っ張り出してきたかのような震え声によるものだった。まるで強い怒りを何とか抑え込もうとしているかのように。
「どうして、こんなにも待たせたのだ!」
 そして持ち上げられた顔は、紛れもない怒りで彩られていた。
 その顔にはスラヴィが思わず言葉にならない声を零す。まるで悲鳴のようだった。
「妾は、ずっと、千二百年も待ったというのに――」
(せっ、千二百年!?)
 イーニッドの言葉が耳に入ってきた時、ターヤは先程以上に、とある一つの単語に驚愕せざるをえなかった。このようなシリアスな状況下で、この驚きを咄嗟に口に出してしまわなかった自分を褒めてやりたくなる。
 外野が一人で脳内混乱を起こしている間にも、イーニッドはスラヴィを責め続けていた。
「ずっとずっと、そなたともう一度会う為だけに耐えてきたと言うのに――」
 この発言で、ターヤは思い出すと同時『千二百年』の意味を理解した。ターヤの記憶が正しければ、スラヴィの記憶の中で二人は『千年後に会う』といったような約束を交わしていた筈だ。けれど、スラヴィはそれを《記憶回廊》になった時に忘れさせられてしまい、二百年も長く彼女を待たせてしまったという事なのだろう。
 一旦言葉を途切れさせたイーニッドは、ぎゅっと膝の上で両手を強く握り締めてから、もう一度眼前の少年を睨み付ける。その眼には、更なる力が込められていた。ぎり、と口元がいっそう強く引き結ばれた。
「……だと言うのに、そなたは妾を忘れてのうのうと廻っておりおって! 約束の時間より待ち続けていた妾の気持ちを、そなたは少しでも考えた事があるのか!?」
 返す言葉も無いようで、スラヴィは黙って彼女の怒りを真正面から受け止めている。それでも目は合わせられないらしく、顔は俯け気味になっていた。
 その様子に更に腸が煮え繰り返ったのかイーニッドの怒気が増す。その口からは言葉が弾丸の如く飛び出した。
「そなたにとって妾は、それ程簡単に忘れてしまえるような存在だったのか!? 約束を破ってしまった程度で会うのを躊躇ってしまうような存在だったのか!? そなたは、本当は……妾になど、会いたくはなかったのではないのか?」
「ち、違うの!」
 実際に泣いているかのような最後の言葉を聞いたところで、思わずターヤは弾かれるようにして立ち上がっていた。部外者という事は承知の上だった。
「違うのイーニッド! スラヴィは本当に――」
「ターヤ!」
 突然大きく鋭い声で刺すようにして名前を呼ばれ、その勢いと強さに押し負けたターヤは停止してしまう。ゆっくりとそちらを見れば、スラヴィが真剣な眼差しで彼女を見ていた。
「……良いんだ」
 彼は今にも泣き出しそうで苦痛に歪む顔をしていると言うのに、ターヤは何もかけられる言葉が見つからなかった。そのまま彼女が言葉を失うと、彼は再び顔を下げてしまう。
 イーニッドも言いたい事は言い尽くしたようで、彼と同じく口を閉じてしまっていた。

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