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二十章 夢の跡地に‐Nirvana‐(4)

 だが、ハーディはすぐには何も言わなかった。百面相の如く表情をころころと変えながら、隣のターヤではなく正面の無造作に積まれている瓦礫を睨み付けている。
 ターヤはハーディから誘ってきたので、彼が話題を切り出すのを待っていた。
 無言が先行してしばらくしてから、意を決したようにハーディが口を開く。
「オマエさぁ、アイツの従妹だっつってたよな?」
「あ、うん。あ、でも今のわたしは記憶喪失だから、ルツィーナさんと会った事があるのかどうかも解らないんだけどね」
 思い出したように苦笑いで付け足せば、ハーディがようやくターヤを見た。その顔は驚きに染まっている。彼女もまた記憶喪失であった事が予想外だったのだろう。
「記憶喪失? オマエも?」
「うん。ルツィーナさんもそうだったんだよね? リクからそう聞いたよ」
 リクとの会話を思い出しながらターヤは言う。
 するとハーディは懐かしそうに目を細めた。
「あぁ、アイツも初めて会った時は自分の名前意外何も覚えてなくてよ……しかもガキみてぇに知らない事だらけだったんだせ?」
「そうだったんだ」
 後半部分は初耳だった。内面は自分よりも大人びているとリクからは言われていただけに、ハーディ達と出逢った頃のルツィーナが子どものように無知に近かったという事実は、ターヤの脳内にはすとんとそのまま落ちてはこなかった。
 随分と吃驚しているターヤに苦笑しながら、ハーディは続ける。
「けど、教えりゃ何でもぽんぽん吸収してくからよ、呑み込みは誰よりも速かったんだ。けど天然なのは根っからだったみてぇでよ、アイツ、俺が甘いもん好きだからってよぉ、米に砂糖をかけた事があんだぜ?」
「えっ、お米に砂糖!?」
 これには流石に驚かない筈が無かった。いったいぜんたい、どのような状況でそのような自体となったのだろうか、と思考がぐるぐると回る。しかし、全く持って予測不能だった。
 ハーディにとっては今でも鮮明に思い出せるくらい実に衝撃的な事件だったようで、彼は遠い目をしている。
「おぉ、あん時は流石に怒ったわ。けどアイツ、何つったと思う? 『ハーディは甘いものが好きだからかけた』っつったんだぜ? 怒る気も失せたっつーの」
 呆れたように、けれども懐かしげに楽しげに語るハーディ。そんな彼を見ていたターヤの脳内に、ふと一つの可能性が浮かび上がった。思わず少しだけ遠慮がちに尋ねていた。
「もしかして、ハーディってルツィーナさんのことが好きなの?」
「! ばっ……!?」
 瞬間、見て解る程にハーディが動揺する。何事かを叫びかけた口もまた、その先を紡げずにぱくぱくと開閉を繰り返しているだけだ。その顔は、気が付けば頬どころか耳までも真っ赤になっていた。
 寧ろターヤの方が驚かされた気分である。確信を持っていた訳でも無ければ、ハーディがこのような反応を見せるとも思っていなかったのだ。何だか良い意味で期待を裏切られた気分だった。
「ほ、本当に好きなんだ」
「そ、そぉ言うオマエこそ、んでアイツのことをよそよそしく呼んでんだよ? 覚えてねぇつっても従妹なんだろ? だったら、んな敬称要らなくね?」
 思わず心情のままに呟けば、照れ隠しなのかハーディが喰い付いてきた。しかも好機とばかりに話題を取り替えてきた。
 今度は逆にターヤの方が言葉に詰まる。確かに彼の言う通りなのだが、実際にルツィーナと会った事があったとしてもその記憶の無いターヤには、幾ら従姉妹だとしても『ルツィーナ』は知らない人物だった。だからこそ、どうしても未ださん付けが抜けないのである。
「おい、どぉしたんだよ? 真っ青だぜ?」
 言われて初めて、ターヤは自分の顔が蒼白になっている事を知った。

(わたし、もしかして怖かったの?)
 現時点の『ターヤ』が『ルツィーナ』を知らない事が、まるで自分の中から何か大切なものが抜け落ちたかのような喪失感を覚える事に等しいのだと、どうも直感的に脳が察知したらしい。そういえばターヤは以前、リクに聴いた話から『ルツィーナ』をイメージしてみた事があったが、思いの外ぼんやりと思い浮かぶ像はあったのだ。やはり自分は記憶を失くす前に、一度くらいは彼女に会った事があるのではないだろうか、とターヤは思い始めていた。
「――おい、マジでどぉしたんだよ?」
 何度目かになるハーディの呼びかけで、ターヤは我に返った。
「あ、ごめん……」
「ったく、具合が悪ぃんだったら最初からそぉ言えよな」
 呆れたようで安堵したような溜め息を零してから、ハーディは覗き込んでいた体勢を元に戻す。
 ターヤとしてはあまり触れられたくない話題を有耶無耶にできたので、不幸中の幸いだった。ハーディには申し訳無いと思いつつも、そっと密かに安堵を覚える。
「しっかし、本当にアイツとオマエは似てねぇんだな。あ、外見じゃなくて中身の話な」
「それ、リクにも言われたよ。天然なところは同じらしいけど」
 そう言えば、なぜか呆れられた。
「そこが似てんのかよ。つー事は、オマエも甘いもんが好きなヤツの飯の上には砂糖でもかけんのか?」
「かけないから!」
「冗談だっての」
 弾かれるようにしてターヤが否定すれば、ハーディには笑われる。ふと、彼とアクセルは何となく似ているような気がした。ので、剥れてやった。
「んっとに、アイツとは違ぇんだな」
 そんなターヤをしばらく面白そうに見ていたハーディだったが、唐突に表情を変える。
 寂しそうな、顔だった。
「ハーディは、わたしがルツィーナさんなら良かった?」
 気付けば、口からはそのような言葉が滑り出ていた。我ながら意地の悪い質問だとは思ったが、既に発言してしまった後だった。
 問われた方のハーディはといえば一瞬虚を突かれたようだったが、すぐに目を伏せる。
「そぉだな、何となく初見からアイツじゃねぇとは薄々勘付いてたんだけどよ、それでも信じたくなかったんだ。アイツが帰ってきたんじゃねぇかって、思いたかったんだ。情けねぇだろ?」
 自嘲気味な笑みがターヤに向けられる。今にも泣き出しそうだった。
 故に、その弱弱しい様子のハーディへと首を振ってみせる。それを否定したかった。
「ううん。ハーディがそれだけルツィーナさんを想ってるって事だから。情けなくなんてないよ」
「ん、せんきゅ」
 そのままの顔で礼を述べると、ハーディは一旦顔を伏せる。素早く戻ってきた表情は、先刻までの通常のものに正されていた。この話題はもう綺麗さっぱり終わり、という意思の表れなのだろう。
「んで、オマエ、オレに何か用があんだろ? リクから聞いたぜ?」
「あ、うん。あのね、わたしはちゃんと覚えてないから、ルツィーナさんについていろいろと教えてほしいの。ルツィーナさんのことを聞くなら、今も昔もハーディが一番よく知ってる、ってヴォルフが言ってたから」
 ハーディに合わせる事にして、ターヤはそもそも彼に会いたいと思っていた理由をようやく明かす。
 これにはハーディの方が嘆ずられたようだった。
「ヴォルが? マジかよ……」
 僅かに逸らされた顔には嬉しさが隠せていなかった。今も昔も他でもない自分がルツィーナのことを一番よく知っている、と評された事に高揚しているのだ。
 何だかそんな彼を見ていると微笑ましくなってくるターヤであった。

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