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十七章 失った過去‐Slavi‐(9)

「だから、一緒に帰ろう?」
 微笑んで、手を差し伸べる。二度目だった。
 それでも尚、差し出された手を少年は掴もうとしなかった。しかし頑なになっている訳ではなく、対立する気持ちが鬩ぎ合っているようで、その顔には迷いが窺える。
 だからこそ、そのままの姿勢でターヤは待つ。
(俺は、生前の自分の事を何一つ覚えていない)
 しばらくして、少年が呟きを零した。
 少女は黙って耳を傾ける。
(だから、先程君が口にした『約束』の事も解らないんだ。けど、その『約束』が俺にとって大事なものだという事は、何となく解った)
 そう言って、彼は自身の胸に手を当てた。大切なものを抱くように、優しく触れる。
 そこでターヤは合点がいった。
(精神が覚えてなくても、身体が覚えてるんだ……)
(そういう事なんだろうな)
 内心で呟いたつもりの独白に相槌を打たれ、思わずターヤは両目を瞬かせて彼を見た。
(ここは俺の精神世界だから、精神だけで飛んできてる君の内心は、手に取るように解るんだ)
「そうなんだ」
 言われて驚き、そしてようやく自分の身体はアグハの林に置いてきた事を思い出す。この世界に来てから自身にとっては異常とも取れるさまざまな体験を経たせいか、どうにも感覚が変な方向に麻痺しているように思われた。
 唖然とした少女に対し、少年は再び顔面を曇らせる。
(今まで、俺が敵だと思っていたのは違った。本当に憎むべき相手は、信じていた方だった。そう知った時、もう何を信じれば良いのか解らなくなったんだ)
 ゆっくりと少年は立ち上がる。その顔に、迷いの色は残っていなかった。
「けど、もう大丈夫。自分の真の敵は見定めた。君のおかげだよ、ありがとう」
 鳥籠は、いつの間にか跡方も無く消え失せていた。
「……」
 スラヴィが立ち直ってくれた事は嬉しかったが、その反面で彼が《世界樹》を真に憎むべき敵として認識した事がターヤには複雑だった。自身と関わりがあるからというのもあるが、彼を誤解してほしくないという気持ちを持っている事が最大の理由である。
 彼女の心中には気付いていないようで、少年は差し伸べられていた手を掴むべく自身もまた手を伸ばす。
(その程度で『俺』は変われないよ)
 だが、それを阻むかのようにして第三者の声が空間内に響き渡っていた。
「! 誰!?」
 突然の闖入者に驚いて周囲を見回したターヤだったが、スラヴィは瞬間的に顔色を変えていた。
「この声――」
(そう、『俺』だよ)
「「!」」
 至近距離から聞こえてきた声に振り向けば、そこにはもう一人のスラヴィが立っていた。
「スラヴィが、二人?」
 ターヤは首を傾げかけて、そこでもう一人の少年の全身が闇に覆われているかのように暗い事に気付く。その様相には、既視感を覚えずにはいられなかった。
「まさか、闇魔?」
(残念。正解だけど不正解だ)
 もう一人のスラヴィは馬鹿にするような表情で首を横に振ると、スラヴィ本人へと視線を向けた。今更ではあるが、その声は先程までのスラヴィのように不明瞭である。
 これにはスラヴィ本人が身構えた。その顔は今にも、まさか、と叫びだしそうだった。
(そう、俺は影。『俺』の――スラヴィ・ラセターの影だよ)
 本人の予想を肯定しながら、両腕を広げ、高らかにもう一人のスラヴィは名乗った。
「!」
「やっぱりか……!」
 驚いたターヤとは対照的に、スラヴィは苦々しげに自身の影を睨み付けた。

 対して、スラヴィの影は更に嗤う。
(そう警戒しないでくれ。俺はただ、『俺』と話をしに来ただけなんだから)
「話?」
 思わず警戒を緩めかけたターヤだったが、それを事前に察知したスラヴィにより制される。
「騙されるな。こいつは俺の自我を崩壊させて、その隙に乗っ取るつもりだ」
「え……!?」
 驚愕に、一瞬だけ身体が硬直する。
 少年を模った影は肯定も否定もせずに嗤ったままだったが、その表情はその通りだと言っているようにも感じられた。
 相手を警戒して視線は外さないまま、スラヴィは続ける。
「闇魔が人の心から誕生する時は、自我を崩壊させて乗っ取りやすくする為に、まずこうやって精神世界の中にトラウマを抉り出す存在――『影』として現れるんだ」
「!」
 弾かれるようにして首が再び、もう一人のスラヴィへと向けられる。姿を見せた時から寸分違わず、その全身は黒い靄のようなもので薄らと包まれていた。それが《闇魔》と同じであったのだと、先程の感覚は間違っていなかったのだと、今度こそターヤは納得する。
 完全に用心を取り戻した少女を見て、スラヴィの影は――闇魔となる前のものは、残念そうに首を振った。
(君は性格的に御しやすいと思ったんだけどな……やっぱり、流石は《世界樹》に連なる者、簡単に籠絡させてはくれないか)
「俺の姿と口調を使うな」
 そろそろ我慢の限界が近付いているようで、スラヴィは自身の影を強い憎しみを込めてねめつけた。
 しかし、その程度で動じる影ではない。
(連れないな、俺は『俺』自身なのに。まぁ良いか、ここで『俺』を潰して、俺がこの身体を貰い受けるよ)
「っ……!」
 瞬間、ターヤの中で感情が爆発した。スラヴィに目を覚ましてもらう為にここまで頑張ったというのに、それをたかだか《闇魔》未満の存在如きに邪魔されて堪るものか、という激情が彼女を突き動かしたのだ。
「そんな事、絶対にさせない!」
 叫ぶや否や、彼女はブローチから杖を取り出す。
(!)
「――〈無〉!」
 即座に反応を見せた影に、しかし対処させる暇も与えずに無詠唱で彼女は魔術を発動した。
 刹那、影の足元に魔法陣が出現する。
 本能的に危険を感じた影が即座に圏外へと退避すると同時、その魔法陣の内部に僅かながらに残っていた袖の部分が瞬間的に消失した。
「!」
(!)
 まるで最初から存在していなかったかのようにそこだけが消え去った光景に、スラヴィと影の顔色が一変する。
 今回はその程度であったから良かったものの、完全に効力範囲内に居た場合にはどうなっていたのかと考えると、その魔術を向けられた当事者ではなくとも背筋を駆け抜ける冷たい感覚を覚えざるを得なかった。
「君は……」
 故に驚愕を表に浮かべてスラヴィは彼女を見るが、当の本人は眼前の影しか視界に入れていなかった。
 そして少女から強い敵意を向けられた影は、これを宣戦布告と取る。
(やっぱり、おまえが一番目障りだ)
 ほぼ決定的に笑みを消すと、影の造形が途端に変化した。それに伴い、口調もスラヴィのものではなくなる。まだ闇魔に至っていないとは言え、その本性を現したのだ。

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