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十七章 失った過去‐Slavi‐(8)

「はい。元より、セアド・スコットさんは、私のことをあまり良くは思われていないようですから」
 再び自嘲気味となった彼女の台詞で、ふとターヤは初めてアグハの林を訪れた時にセアドが発した言葉を思い出した。

『あの女、どんだけ世界に介入すりゃ気が済むんだよ』

 彼女が一行に加勢したと知った時、彼が吐き捨てるようにして紡いだ台詞だ。
 そしてアクセルの記憶に彼女が登場した時も、彼は反応を示していた。それは友好にも嫌悪にも自身の感情を傾けられないという、実に矛盾した表情だった。
「話を戻させていただきますと、言わばラセターさんは私の眷属という事になります」
「眷属、って……じゃあ、スラヴィは、あなたの支配下に居るって事?」
 少女のスラヴィに対する態度や様子からして無理矢理にでも従わせようとする事は皆無だと断定できたが、その事実には驚きを顕にせざるを得ない。
 恐る恐る口にしたターヤの疑問は、首を縦に振られた事で肯定される。
「一応は。ただし先程も申しましたように私は『欠陥品』ですから、完全に彼を支配しているという訳ではありません。寧ろ、それは《世界樹》さんに言える事でしょう」
「ユグドラシルに?」
「はい。なぜなら、私の補佐とするべく生前のラセターさんを元にして《記憶回廊》という存在を確立させたのは、他ならぬあの方御自身なのですから」
 どこか非難するかのように紡がれた言葉は、ターヤに《世界樹》との会話を思い返させた。確かに彼も同じようなことを話してくれた覚えがある。自分が招いてしまったのだと、彼は悔いていた。
 しかし、即座に少女の表情は己への嘲りへと立ち戻っていく。
「けれど、元々あの方にそのような選択をさせたのは他ならぬ私自身なのですから、やはりラセターさんに責められ、憎まれるべきは私という存在なのでしょうね」
 違う、と言ってあげたかった。けれども、彼女の事を理解できている訳でもない自分がそのような台詞を口にしたところで何も変わらない、そう脳が冷静に主張すれば、喉元まで出かかった言葉は徐々に萎んで消滅していくしかない。
「ともかく、今はラセターさんの精神に働きかける方が先でしょう」
 真剣な表情で言われてようやく、ターヤは自身がここまで来た理由に回帰した。こんな大事な事を一時でも忘れていたなんて、と内心で強く自責の念が働いた。
 その間にも少女は頭部へと手を伸ばし、髪を一本だけ引っこ抜く。
「これを」
 それから彼女はターヤの左手を取ると、その薬指に髪の毛を巻き付けた。
 相手の手が離れても、ターヤの目はリボン結びにされた銀髪に釘付けになっていた。まるで細い指輪のようなそれをまじまじと見つめながら、疑問符を飛ばす。
「えっと、これって何?」
「ラセターさんの精神空間内における道標の代わりです。私の身体の一部ですから、眷属であるラセターさんの元まで導いてくれるかと」
 直後、視線が落とされた。
「本当は私が御案内した方が安全なのですが、私が居ては、ラセターさんには問答無用で拒絶されてしまうでしょうから」
 もう何度目になるのかすら解らない自嘲だった。
 やはり何かしらの言葉をかけたくなるターヤだったが、その衝動は飲み込む事で我慢すると、その代わりとして決意の色を込めた瞳で少女を真っ向から見つめる。
「大丈夫、わたしが必ずスラヴィと話をつけてくるから」
「はい、宜しく御願いします」
 少女はしばらく呆けたような面となった後、くしゃくしゃになりそうな顔で頭を下げたのだった。


 結論からして言えば、目的たる人物の探索は早い段階で終了した。

 少女と別れたターヤは彼女を見送る暇も惜しんで踵を返し、彼女の髪に導かれるがままにしてスラヴィの精神世界内を進み始めた。そしてしばらくもしない内に、再び鳥籠を視界に捉えたのである。
「スラヴィ!」
 三度目の呼びかけに、しかし少年はもう首を動かさなかった。
(また、君か)
 呆れたような困惑したような溜め息を零し、彼は視線だけを寄越してくる。
 先程は気付かなかったが、少年の声は双子龍のように直接脳に響いてきていた。ただし彼らとは異なり更に不鮮明に感じられるのは、ここが彼の精神世界の中だからだろう。現に、その唇は微塵も動いてはいない。
 そして眼前に居るスラヴィが今まで接してきた《記憶回廊》としての彼ではなく、生前の『スラヴィ・ラセター』である事をターヤの脳は既に理解していた。その為、もうその表情と感情の豊かさにいちいち吃驚する事も無い。
 織の前まで辿り着いた彼女は、ひとまず唾を呑み込むと、意を決して口を開く。
「帰ろう、スラヴィ。いつまでもこんなところに閉じ籠ってるのは良くないよ」
 宥めるつもりでゆっくりと言葉を発したのだが、逆にその内容が少年に目を見開かせる結果となった。
(君なんかに、解るものか!)
「うん、解らないよ」
 激情を向けられて、けれども逡巡する事無くきっぱりと肯定したターヤの言葉に、スラヴィが息を呑むのが解った。相手の気遣いまでもを否定するこの言葉でなら、彼女をほぼ完全に退けられると思っていたのだろう。
 実際、その一言はターヤの胸に鋭く突き刺さっていた。それでも先刻の失言の分を取り戻そうと、自分にできる事をしようと、彼女はその痛みを表に出さないよう努める。
「わたしには、あなたの苦しみも過去も思いも……何も解らない。わたしは《記憶回廊》としてのスラヴィしか知らないよ。でも、スラヴィに目を覚ましてほしい、またいろんなことを話したい、っていう気持ちだけはあるから」
 檻の棒を両手で掴むと、その間から顔を通そうとするかのようにターヤは限界まで身を乗り出す。
「だから、一緒にみんなのところに帰ろう」
 どこまでも真摯に、彼女は訴えた。
 彼女の行動と言葉と表情と――その全てに、スラヴィが揺れた。
(けど、俺は……)
 しかし傾きかけた天秤は、本人の躊躇いによって元の位置まで戻されようとする。
 瞬間、ターヤの脳内で何かが音を立てて切れた。
「いつまでもうじうじしてたって、何にもならないよ!」
 突然の怒鳴り声に驚いたのか、弾かれるようにして少年の両肩が跳ね上がり、頭が持ち上がる。その面は、初めて目にする驚き顔となっていた。
 ただし、今はそれどころではないターヤの中でその事は流れていき、感情だけが先走りする。
「そんなにスラヴィは、現実からもわたし達からも逃げ出したいの!?」
 彼女の迫力に呑まれてしまっているようで、少年は何も言えない。ただ少々怯えたような表情を浮かべて、彼女から視線を逸らせずに固まっているだけだ。
 思いきり叫んですっきりすると、ターヤは一旦自身を落ち着かせる。それから、再び少年へと向き直った。
「それに……『彼女との約束』はどうするの?」
「――っ!」
 その言葉に、その単語に、少年の顔色が一変した。声もその時だけ普段のような鮮明さに戻る。
「一生こんなところに閉じ籠ってたって、何もならない。前には進めないんだよ」
 付け込むようで申し訳ない気もしたが、そこに畳みかけるようにしてターヤは続ける。それは決して打算的でも計算したものでもなく、感情のままに進んだ結果、自然と口から零れ落ちてきた言葉だった。
 故に、彼女の発言はスラヴィの胸中に波紋を作っていく。

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