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十六章 『救世主』‐worship‐(5)

「悪いが、その子は返してもらう」
 しかし、エルシリアに捕まるよりも速く、彼女は腕を掴まれたかと思いきや、強い力で後方へと引き寄せられていた。
「え――?」
 予想外の事態に、間の抜けた声が零れ落ちる。その間にも、彼女はその主に抱え込まれる事となる。
「あらあら、これは珍しい方と遭遇してしまいましたわ。ところで、なぜ貴方がここにいらっしゃるのかしら?」
 訳が解らず両目を瞬かせるターヤとは対照的に、エルシリアの顔は決して笑ってなどいなかった。そこにありありと浮かぶは、憎悪と敵視と殺意と――そして、驚愕だ。
 その意外な反応に、思わずターヤは後方へと視線を動かしていた。
「元〔十二星座〕が《水瓶座》ヴォルフガング・ラウリアさん」
 彼女を庇うようにして片手で抱きかかえていたのは、他ならぬヴォルフガングであった。
「ヴォルフ!」
 咄嗟に、本能的にそう呼んでいた。
 一行の前では名乗らなかった筈の愛称で呼ばれた事で、青年は少女へと驚き顔を向けるが、すぐに意識を眼前の司教へと戻す。利き手に持った剣の切っ先は相手の喉元へと狙いを定めたまま、片手でターヤを抱え直した。
「わっ……!」
「ごめんな、少し我慢していてくれ」
 突然の浮遊感に驚いたターヤだったが、ヴォルフガングに声をかけられれば頷いた。
 彼は彼女を米俵を担ぐように抱え直した姿勢でエルシリアを牽制しながら、ゆっくりと移動していく。このまま彼女の射程圏内から脱したところで、一気に逃走を図るつもりなのだ。
 けれども、それを易々と許すようなエルシリアではない。
「導師様をどうなさるつもりでして?」
 問いかけながら彼女もまた、青年に合わせて動いていた。いつの間にかその片手には、相変わらずどこから取り出したのかも解らない大鎌が握られている。
 警戒を強めながらも、未だヴォルフガングは間合いとタイミングを計っていた。
「彼らの許に帰すだけだ。君こそ、なぜそこまで彼女を欲する?」
「答える必要はありませんわ」
 拒絶の笑みを浮かべると、すぐさま彼女は青年へと大鎌を振りかざす。無論、ターヤには掠り傷一つすら負わせないように、剣を構えている方の首元を狙って。
「――〈盾〉!」
 だが、その一撃はターヤが放った〈防御魔術〉によって阻まれた。
 エルシリアの顔が、先程のように驚きで染め上げられる。
「導師様……!?」
 思わず申し訳無さを感じてしまうくらいには、その表情は悲愴なものであった。
 これを好機と見たヴォルフガングは素早く後方に下がると、途端に踵を返してエルシリアからなるべく距離を取るようにして走り出した。
 だが、彼女は追ってこない。まるで親に棄てられた子どものように、呆然と立ち尽くしていた。武器を手にしている腕も、力無く垂れ下がっている。
 青年が正反対の方向を向いた事で、ターヤにはそんなエルシリアの様子全てが真正面から見えていた。
「どうしてなのですか、導師様っ……!」
 次の角を曲がっていく時、確かにそう聞こえたような気がした。


 かくして上手くエルシリアからの逃走に成功した二人は、現在も注意深く周囲を確認しながら廊下を進んでいた。ヴォルフガングはこの建物の内部構造を把握しているのか、進行方向の選定には迷いが無かった。
 そして未だ担がれたままのターヤはといえば、つい先程のエルシリアの表情が忘れらずにいた。どちらかと言えば自分が被害者なのだろうが、どうにもばつが悪かったのだ。

(どうして、あそこまでエルシリアは《世界樹の神子》を崇拝しているの?)
 彼女は、自らの口で《世界樹の神子》という存在に憧れているのだと言った。十年前に先代と出会ったような事も。だからこそ《世界樹の神子》に――『導師様』に自分達を導いてほしいのだと。
 けれども、それだけでは理由としては足りないような気がターヤはしていた。
「妙だな」
 ふと、ヴォルフガングが呟きを落とす。
 訝しむような彼の言葉で、ターヤの意識はそちらに向いた。
「どうしたの?」
「先程の《堕天使》以外には、俺達を追ってくる者も襲ってくる者も一人も居ないんだ。どこかに潜んでいる気配も感じられない」
 言われてみれば、確かにそうだった。エルシリアを撒いた後、二人は〔教会〕のメンバーとは誰一人として対峙するどころか、遭遇すらしていなかった。これは明らかに異常だ。
 何かの予兆なのだろうか、とターヤは不安を覚えた。
「大丈夫かい?」
 そんな彼女の様子に気付いたのか、ヴォルフガングが笑いかけてくる。
 まるで『お兄ちゃん』みたいだと思うと同時、その暖かな笑みにターヤの緊張も解れたのだった。そこでふと、水が沸騰したかのようにぽこぽこと脳内で生じるものがあった。
「そういえば、どうしてわたしを助けに来てくれたの? どうしてここに居るって解ったの? そもそも、ここってどこなの?」
 それまで少しずつながらも疑問を溜め続けていたターヤは、助けられた事に対する安堵が今になってようやく押し寄せてきた上、微笑みかけられた事で一気に緊張が緩んでしまっていたのだ。故に、その反動で彼女はヴォルフガングへと幾つもの質問をぶつけていた。
 質問責めにされた方の彼はといえば、思わず苦笑を浮かべてしまう。
「とりあえず落ち着いてくれないかな? まず、ここは〔聖譚教会〕の本部[サンクトゥス大聖堂]だ」
「〔教会〕の本拠地……」
 という事は、ここは聖都シントイスモなのだろう。幾ら霊峰ポッセドゥートと聖都が近いとはいえ、まさかそんな所まで連れてこられていたとは思いもしないターヤであった。
 だが、教皇がその場に居た時点で察するべきだった事に彼女は気付いていない。
「次に、君がここに居ると解った理由、そして助けに来た理由だが……」
 一拍分、間が開いた。
「それは、彼女に頼まれたからなんだ」
「彼女?」
 誰の事だろう、とターヤは首を傾げる。
「つい先程まで、俺は自宅で仕事をしていたんだ。そこに彼女が現れて、俺を君の仲間のところまで送ってくれたんだよ」
 ヴォルフガングはその人物について答える気は無いようだったが、ターヤには既にそれどころではなくなっていた。無意識のうちに彼へと思いきり顔を近付けてしまうくらいには。
「! みんなは無事なの!?」
「ああ、彼らなら大丈夫だ。寧ろ君のことを心配していたよ」
「そっか……良かった」
 安堵の溜め息を零し、彼女は彼から顔を離す。
「話を聴いた後に彼らにも事情を話そうと思ったんだが、その前にまた彼女に転移させられてしまったんだ。そうしたら、君が《堕天使》に追いつめられている場面に遭遇した、という訳なんだ」
 益々ヴォルフガングの言う『彼女』という人物が気になってきたターヤではあったが、彼に話す気が無ければ訊いても無駄だろうと思い、別に気になっている事を尋ねた。
「あの……ヴォルフは、わたしがエルシリアに追われてた理由を知ってたみたいだけど、どうして?」
 瞬間、青年の表情が硬直した。驚いたような顔がターヤを捉える。
 訊いてはいけない事だったのか、とその表情を見て知る。慌てて頭を下げた。
「あ、ごめんっ……!」

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