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十六章 『救世主』‐worship‐(2)

「エルシリア……」
 だが、ターヤにはもう彼女に笑みを返す事はできそうになかった。
 彼女の様子に気付いていながら、それでもエルシリアは笑みを絶やそうとはしない。一方通行のままでも構わないのだとでも言うかのように、どこか尊崇染みた視線をターヤに捧げていた。
 けれどもターヤにしてみれば、その目は悪寒を覚えさせる要因にしかならない。
「どうして、あなたはわたしを……?」
 故にその感覚を相手から誤魔化すべく、先程から感じていた疑問を口にした。
 しかし、ターヤの問にエルシリアは微笑するだけだ。
「どうしてだと思いますか?」
 遂には、質問を質問で返してきた。本心の読めぬ笑みはそのままだ。
「どうして、って……」
 そうは言われても、ターヤには彼女の考えている事など解る筈も無い。彼女が自分のことを『導師様』と呼んだ事は覚えているが、それがいったいどのような意味合いを持つのかも知らなかった。
 更なる困惑顔になったターヤを見つめるエルシリアの口の端が、若干持ち上がった。その足が、ようやく扉の前から動き出す。彼女が一直線に進む先にはベッドがあり、そこにはターヤが居る。
 思わず身体を竦ませた彼女の前に辿り着いたエルシリアは、跪いたかと思えばその右手を取った。
「今は解らなくても構いません。これから知ってもらえれば良いのですから」
 まるで忠誠を誓うようなその姿勢に驚きで言葉を失ったターヤには構わず、エルシリアはどこか恍惚とした表情で彼女の右手を撫でたのだった。
「っ……!」
 瞬間、ぞわりと背筋を寒気のする何かが一気に駆け抜けていった。その悪寒から思わず相手の手を弾くようにして振り払ってしまうも、すぐに我に返る。自身の右手を左手で胸元に抱え込んだまま、ターヤは咄嗟に謝ろうと口を開きかけて、けれど声が出てこなかった。まるで喉でつっかえているかのようだった。
 しかしエルシリアは全く気にした様子も無く、寧ろ頭を下げてきた程だ。
「申し訳ありません、導師様。御無礼を御許しください」
 これにはターヤの方が困惑せざるを得なかった。
「エ、エルシリア!?」
 驚き、何とか止めようと自分から手を伸ばして上半身を傾けるも、それを待っていたかのように頭を上げたエルシリアと至近距離で視線が交わる。息が止まったように、錯覚した。
 けれども、それを呑み込むと、ターヤは手を引っ込めて、今度は自分から相手を見据える。
「教えて、エルシリア。どうして、あなたはわたしを『導師様』って呼ぶの? それは、いったい何を意味してるの?」
 意図せずとも声と顔付きが真剣さを増していく。
 依然として彼女を見上げたまま、エルシリアは首肯した。
「そうですね。まずは、そこから説明させていただきます」
 そうして膝は付いたまま姿勢を正すと、彼女はまっすぐにターヤを見つめた。
「以前、私がエンペサルで御話した事は覚えていらっしゃいまして?」
 ゆっくりと頷く。忘れる筈も無かった。ターヤに《世界樹》とその『目』について最初に教えてくれたのは、他ならぬエルシリアだったのだから。
「そして世界樹の街から出ていらしたという事は、貴女様はもう、御自分が何者なのか知ってしまわれたのではないのですか?」
 その言葉に、両目が大きく見開かれた。どうして、とその顔が公に語る。
 相手が見せた素直な反応にエルシリアが微笑む。
「私は〔教会〕の司教ですもの、あの門の先が世界樹の街である事、そして《世界樹の巫女》の存在くらいは知っていて当然でしてよ」
 そして、冗談めかしてそう言ったのだった。

 だが、ターヤには決して彼女の言葉通りだとは思えなかった。まず世界樹の街やセフィラの使途については、普通の人間ならば知り得ないだろう。何せそれらは一般には知られていない上、関係者、あるいは偶然かの街に迷い込んでしまった者ぐらいしか知る事ができないのから。そして例え迷子が帰還後にその事を本や日記に記したとしても、それは《世界樹》とそれを覆い隠す街の存在くらいまでしか衆目には晒せない筈だ。
 だからこそ、ターヤにはエルシリアの言葉が信じられなかった。〔教会〕所属だから知っているのではなく、おそらく彼女の場合は地道且つ膨大な調査などの結果だと思われる。
「どうして、そんなに《世界樹》のことが知りたかったの?」
 気付けば、無意識のうちに口の端から言葉が零れ落ちていた。
 途端、エルシリアの仮面が僅かに崩れる。
「あらあら、やはり解ってしまわれるのですね」
 ふぅ、と一息つく。彼女は指摘されてしまえば、それ以上隠し通す気は無いようだった。
 思わず声に出していた事に気付いて反射的に口元を押さえたターヤであったが、その事を察すると手を下ろして視線を相手へと戻す。
 エルシリアは、どこか懐かしそうに視線を虚空へとやった。
「簡単な事ですわ。私はただ、憧れのあの御方について知りたかっただけなのですから」
「あの御方?」
「十年前、私の前に顕れて、一瞬で全ての闇魔を浄化されたあの御方――」
 最早ターヤの声も届いているのかいないのか、エルシリアは先程のような陶酔した表情となっていた。
「先代の《世界樹の巫女》ルツィーナさんの事を」
「!」
 その名に、ターヤは驚愕を覚えるしかない。
(どうして……!)
 知っているの、とまでは声にはできなかったが、面には大きく露出していた。
 そういえば、思い返してみると、フェーリエンで『ルツィーナ』について聞いた時、エルシリアはどこか彼女を上に見ているような言動を取っていた気がする。内容の方に気が回っていたので当時は全く気付かなかったが、今思えば、あの時からヒントは提示されていたのだ。
(じゃあ、エルシリアはわたしが今代の《神子》で、ルツィーナさんの血縁だから、《導師様》って呼んでるって事なの?)
「今代の《巫女》であられる上、あの御方と瓜二つな貴女様こそ、私達を導いてくださる《導師様》なのですわ――」
 まるでターヤの思考を読み取って肯定するかのようなタイミングで、エルシリアは彼女へと視線を戻し、その両手を伸ばしてくる。その瞳に映っていたのはターヤでも『ルツィーナ』でもなく、彼女の行きすぎた崇拝が生み出した虚像だった。
 弾かれるようにして、両肩が跳ね上がった。
(この人っ……!)
「導師様、どうか私達を御導きくださいませ――」
 エルシリアの手が、ターヤの頬に触れる。
「エルシリア」
 寸前で、彼女を制する声が一つあった。
 本能的に瞑りかけていた目を開けて動かせば、いつの間に入ってきたのか扉の前には一人の女性が立っていた。
(あの人……)
 その人物に、ターヤは見覚えがあった。先日ゼルトナー闘技場辺りで二回ほど遭遇した〔教会〕の司祭にして、調停者一族でアクセルの従妹、ソニア・ヴェルニーである。
 彼女はそのまま室内まで進んでくると、エルシリアの隣で彼女同様に跪いて頭を垂れた。
「彼女が御無礼を働いたようで、失礼いたしました、導師様」

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