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十六章 『救世主』‐worship‐(12)

「それが――グリンブルスティの特性だから、よっと!」
 息の上がってきているアシュレイは跳んで一本の木の幹を駆け上がると、猪がその樹に突撃する直前に再び跳んでその後方へと降り立っていた。そうして猪が再度狙いを定めて溜めている間に、休憩も兼ねた説明を行う。
「体毛が黄金色になると、グリンブルスティは高速で動けるようになるのよ。特に水中と空中だと尚更ね」
「じゃあ、シルフを呼ぶのも駄目かぁ。サラマンダーは間違ってここを焼き尽くしちゃうかもしれないし……」
 他の精霊を喚ぼうかどうか考えていたらしいマンスが、途端に肩を落とした。
 猪は溜めを追えると、アシュレイへと向かって突進してくる。
 だが、今度はその間にレオンスが割り込んでいた。
「!」
 かと思えば、アシュレイを担ぎ上げたのである。
「ちょっ――」
「少し、俺に任せてくれ」
 アシュレイが抗議しかけるも、彼はそれを抑え込むと、眼前の猪へと向かって身構える。 
 何をするつもりなのかと皆は思わず加勢しそうになるが、レオンスの真剣な表情を前にすると動けなくなった。
 グリンブルスティは相手が誰になろうと構わないようで、そのまま向かってくる。
 それでもレオンスは動かない。
「おにーちゃん!」
 耐え切れなくなったのかマンスが彼を呼ぶと同時、レオンスはすばやく横へと退避する。
 直前で避けられた為、身体が反応できなかった猪はそのまま真正面に位置していた樹へと突っ込んでいった。他よりも太く堅めの樹だったのか、猪は完全には幹を割り切れず、逆に自らが開けた大穴に填まる結果となってしまう。
 これがレオンスの狙いだったのだ。
「ふぅ、何とか上手くいったみたいだな」
 確率の低い賭けだったようで、一行の許に戻ってきたレオンスはアシュレイを下ろしてから息を吐いた。
 そんな彼へとアシュレイは食ってかかる。
「あんたねぇ、博打を打つのは構わないけど、あたしを巻き込まないでちょうだい。だいたい、あんな危険な賭けに出るとか馬鹿なの?」
 彼女のように棘を出すつもりは無いにしても、その内容自体は尤もだと思われた。
 流石は〔盗賊達の屋形船〕のギルドリーダーというべきか、意外と彼は危ない橋を渡るタイプだったのだと今回の一件で明らかになった訳からだ。てっきり用心深く堅実なのかと想像していた一行である。
 助けた相手からの非難めいた指摘にレオンスは苦笑する。相手がアシュレイ故に最初から礼の方は期待していなかったのだが、こうも刺々しくされては苦笑せざるを得なかったのだ。
「ちょっと、ちゃんと聞いてるの? これでも、あたしなりに……あんたを――」
 徐々に言葉尻を窄ませながらもアシュレイが言おうとした時、それを遮るようにして猪が拘束から逃れたのだった。どうやら力任せに穴を広げて脱出したらしい。
 根元部分に大穴を開けられた樹は、そこから折れるようにして、そのままゆっくりと倒れていった。
「えぇっ!? まだやるの!?」
「しつけぇなぁ」
 すっかり終わったものだと思い込んでいたマンスとアクセルが脱力した反面、レオンスは予想通りとでも言いたげな苦笑いを浮かべていた。
「やっぱり駄目だったみたいだな。せっかくのアシュレイのデレも見れなかったし、今日はあまりついてないみたいだよ」
「そこはどうでも良いでしょうが!」
 わざとらしくレオンスが肩を竦めてみせれば、アシュレイが噛み付いた。それから我に返ったように咳払いをして、話題を元に戻す。今度は真面目且つ真剣で深刻気な表情だった。

「そもそも、あたしのスピードでも一定の距離を保つのがやっとだったんだから、あんた達にどうこうできる筈が無かったのよ」
「けど、やってみないと解らないだろう?」
 虚を突かれたように反論が出てこなかった。
「それはそうだけど……とにかく、もう一回撹乱してみるわ。それで、マンスにたの――」
「止めとけ。ただでさえおまえは体力がねぇんだから、もう一度同じ事をしてもさっきみてぇには逃げ切れねぇよ」
 迷いを振り払うように自身の中で仕切り直そうとしたアシュレイだが、それはアクセルに止められる。
 図星だったらしく怯んだ彼女に呆れたような息を一つ落とすと、アクセルは既に何度目になるかも判らない溜めを行っているグリンブルスティへと視線を固定した。
「――できた!」
 今度こそ自ら猪と相対しようとする青年だったが、そこに飛んできた一つの歓喜の声により遮られる事となってしまう。
 見れば、ターヤが杖を構えたまま顔全体を輝かせていた。よほど嬉しい事があったようだが、現在この場が戦場であり、彼女の足元には魔法陣が浮かんでいるという時点で、それは実に場違いな笑顔であった。
 故に誰もが一瞬、現状を忘れて唖然としてしまう。
「お、おい、ターヤ――」
「今度こそ――!」
 しかしアクセルの制止には全く気付いていないようで、ターヤは杖を構え直して目を瞑る。
 瞬間、彼女の足元に展開されていた足元の魔方陣が膨張した。
 その色は、無色。
「〈無〉!」
 そしてその目が開かれた瞬間、グリンブルスティの姿が消えた。
 もう少し細かく正しく言うのならば、突如として現れた空間の中に呑み込まれたのである。
「え……」
 マンスが零した声は、皆の心中の代弁でもあった。
 と、そこで消えた時と同様に、唐突に猪の姿が同じ場所に現れる。
 失敗したのかと緩みかけていた構えを強めた前衛組であったが、彼らの予想に反して、グリンブルスティの瞳に先程までの燃え滾る炎は映ってはいなかった。猪はそのまま何事も無かったかのように踵を返すと、大森林の奥へと去っていった。
「何だったの?」
 両眼を瞬かせてくるアシュレイに、しかしアクセルもレオンスも答えられる筈が無かった。
 けれども、そこで上ずった気持ちになっているらしきターヤが説明してくれる。
「ユグドラシルに教えてもらった攻撃魔術で、グリンブルスティの怒りを『無かった事にした』の。しかも今のって《神子》特有なんだって!」
 初めて攻撃魔術に成功した事が非常に喜ばしかったようで、少女の瞳が通常に戻る様子は今のところ無かった。
「本当は三段階あって、今のは一段階目なんだけど、流石にまだそこまではできないから」
 恥ずかしそうに眉尻を下げてターヤは笑う。
 だが、その言葉の意味を完全に理解したアシュレイ達は内心悪寒を覚えていた。
 無かった事にする。それはつまり、物質であろうと生命であろうと誰かの行動であろうと――例え、感情であろうとも、見境無く無に帰してしまうという事だ。
 しかも更に恐ろしい事に、当の本人はその事に少しも気付いていないようなのだ。
 思わず顔を見合わせた前衛組であった。改めて、エルシリアのような人物に彼女を渡してはならないと視線だけで確認し合う。《神子》の力を悪用されては、今に取り返しのつかない事になりそうだからだ。

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アイン

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