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十六章 『救世主』‐worship‐(11)

 唖然とするターヤやマンスとは裏腹に、アシュレイは悪態を吐く。
「あの女……! 自分だけ逃げるなんて!」
「『グリンブルスティ』?」
 だが、アクセルはソニアが言い残した単語を思案していた。聞き覚えがある気がしたのだ。
「おいアシュレイ!」
「何よ!」
 矛先を変えるかのように鋭く不機嫌な声が向けられるが、今はそれに反応している場合ではなかった。
「グリンブルスティってどんなモンスターだ?」
「はぁ? 何言っ――グリンブルスティですって!?」
 ソニアへの怒りからか一度は聞き流しそうになったアシュレイだったが、ようやく脳内でその単語をしっかりと認識したのだった。途端に表情が一変する。
 彼女の反応から良くない想像をしたアクセルは、慌てて皆へと声をかける。
「おい! とっととイヨルギアまではし――」
 だが、遅かった。
 地響きが収まった、と思った瞬間、数本の木々を薙ぎ倒しながら、一頭の猪が姿を現したのだった。
「「!」」
 反射的に一行は身構える。
 件の猪はその場で一時的に立ち止まると、一行の方を向いて片方の後ろ足で何度も地面を蹴って、真正面目がけて突進する準備を行っていた――つまりは、途轍もなく怒っていたのだから。
 訳が解らなかったが、緊急事態だと脳が判断すれば自然とターヤは詠唱に入っていた。
「『巨大な鏡よ、そこに映りし邪悪なるもの』――」
 力強そうな相手だと予測した為、選択は中級防御魔術、詠唱は早口となる。
 その間にも、マンスが巻物を取り出して詠唱を始めていた。
 猪は溜めを終えると、一気に一行へと向かって猛進してきた。
「――『あるいは我に仇なすもの、その全てを跳ね返せ』!」
 ぎりぎりでターヤの詠唱も完成する。
「〈反射鏡〉!」
 モンスターが衝突する直前、かの猪と一行との間に巨大な鏡が出現した。
 勢いをつけていた足が止まれる筈も無く、そのまま猪は鏡に激突する形となる。
 しかし、相手が前屈みの姿勢で突進してきたからか、その体重が加えられた分、押し潰さんとするかのように攻撃の威力も増す。
「っ……!」
 あまりの重量にターヤは顔を顰めた。
「あぁくっそ、何でこんな時に限ってエマの奴は居ないんだよ!」
「あんたがエマ様にスラヴィを預けたからでしょうが!」
 彼女一人ではきついと踏んだアクセルが苛立ちを発散するかのように叫ぶが、アシュレイによって即座に切り捨てられる。
 エマが居ない以上は彼女を助力できる者も居らず、本人もそれを承知しているので力の限りに踏ん張るしかなかった。
 けれども、彼女がそのまま圧迫され続ける事は無かった。
「――お待たせ! 〈水精霊〉!」
 なぜなら、少年の声と共に彼の頭上に水を司る精霊が姿を現したからだ。それは、水を纏った透明感のある巨大な魚だった。

​ その姿を目にしたレオンスが、驚嘆を込めて呟く。

「《水精霊ウンディーネ》……」
「ウンディーネ、あの猪の動きを止めて!」
 マンスが猪を指差せば、魚が高らかに声を上げる。
 瞬間、どこからともなく水が飛んできたかと思えば、猪の足元に収束していた。これにより猪は足元を取られてバランスを崩し動きを制限され、重圧から解放されたターヤは杖を下げて一息吐く。
「この近くにはレングスィヒトン大河川が流れてるし、水の供給もいっぱいあるんだ! だから、ここは僕とウンディーネに任せてよ!」
 自慢げに胸を張った少年の言葉に甘え、ひとまずこの状況は任せる事にした一行であった。

 やはりマンスが四精霊全員と契約していた点が気にかかったターヤだったが、今はそれどころではないと思い直す。質問ならば、後でできるのだからと自らに言い聞かせた。

 かくして時間的余裕が生まれた事を機に、アクセルがアシュレイを見る。
「で、あのモンスターは何なんだよ?」
「さっきあの女も言ってたけど、あれは魔物グリンブルスティよ。このズィーゲン大森林の主とされていて、普段はそうでもないみたいだけど、今みたいに怒ると凶暴化するの」
 この説明に、レオンスは思い当たる節があるようだった。
「と言う事は、もしかしてさっきの君とソニア・ヴェルニーの口論が彼の眠りを妨げた、という可能性も考えられるな」
「多分そうでしょうね」
 自覚はあったようで、アシュレイは気まずそうに肯定した。
 確かに彼の言う通り、彼女の達二人の口喧嘩は思ったより大森林の中に響いていたようだった。それがグリンブルスティの眠りを妨げる結果となり、その声の元目がけて猪が突撃してきたと考えるのが妥当だろう。
「つー事は、おまえとソニアのせいかよ……」
 呆れたようにアクセルが溜め息を吐くが、アシュレイが噛み付く事は無かった。
「じゃあ、どうにかしてグリンブルスティを鎮めないといけないよね?」
「ええ、最悪倒してでもね」
「なら簡単だな。あの猪はマンスに足止めしてもらって、その間に俺達が叩けば良い」
 ターヤの提案を肯定したアシュレイの言を聞き、アクセルはそれ程大変ではないと楽観視したようだ。
「けど、簡単に倒せると思わない方が良いわ。あいつの恐ろしいところは――」
 そこにアシュレイが神妙な面持ちで釘を刺そうとした時だった。
 突如として猪が天へと向かって吠えたかと思えば、その全身が一瞬にして黄金色に覆われたのである。
「「!」」
「な、何!?」
 驚いたマンスに連動してか、《水精霊》の術は切れてしまう。水が四方八方へと霧散した。
 その好機を見逃さず、猪は再び足で地面を蹴って勢いを溜め始めた。
「あぁ、もう! 面倒な事になったわね! ――こっちよ、グリンブルスティ!」
 悪態を吐くや否や、アシュレイは皆から離れるようにして飛び出していた。次いで、相手の注意を自身に引き付ける為か、わざとらしく大声を上げる。
 グリンブルスティもその声が自身の眠りを妨げたものだと気付いたのか、そちらに標的を変更する。
 ターヤはどうしたものかと少しばかり逡巡するも、すぐに詠唱へと移る。ただし、今回は防御魔術ではなかった。グリンブルスティが纏う黄金色の毛を見た時、本能的に嫌な予感を覚えていたのだ。
(どうか、上手くいきますように!)
 一方、アシュレイとグリンブルスティの鬼ごっこは、当初こそ彼女が猪を撹乱する結果に終わるだろうと予測されていた。
 だが、現に猪は先程までとは比べものにならない速度で彼女を追いかけている。
 不測の事態に、皆の驚きも小さくはない。
「はえぇっ……!」
 アクセルの言葉通り、猪はその巨体に似合わぬ素早さを手に入れていた。世界規模でもトップクラスの俊敏さを誇るアシュレイでさえ、追い付かれないようにするのがやっとという状況なのだから、その高速の度合いが解るというものだ。
「それなら……ウンディーネ、もう一回お願い!」
 マンスが指示を飛ばせば《水精霊》は頷き、先程同様に水を呼び戻して操ると、再びグリンブルスティの足元を完全なる水場にしてしまう。
 誰もが、よし、と思った。
 けれども皆の予想とは裏腹に、猪は先程のようにバランスを崩す事は無かった。水という不安定な足場であるにも関わらず、寧ろ平地よりも速度が上がっている始末だ。
「うそっ!? 何で!?」
 これにはアシュレイ以外が驚きを隠せない。ましてや、マンスは驚愕すら浮かべていた。

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ウンディーネ

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