The Quest of Means∞
‐サークルの世界‐
十五章 世界樹の街‐Tarja‐(9)
「全く、私をその名で呼ばないでくださいと言いましたよね?」
地を這うような低い声に振り向けば、リチャードが初めて眉間にしわを寄せていた。敵意と若干の殺意を剥き出しにした、怒りに満ちた様子だった。そこには、難攻不落のポーカーフェイスなど微塵も残ってはいない。
どうやら彼は声の主が解っているようだが、一行には未だに特定できない。
『先に禁を破ったのは主だ。悪い性格が出たな』
再び、同じ声が皆の頭の中に響いた。故に声が飛んでくる方向から探知する事も叶わず、一行は周囲を見回すしかないが、依然としてそれと思しき人影は見当たらない。
ただし、ターヤとアクセルだけは二言目を耳にした時、思い当たるものがあった。
「これってもしかして……」
「《世界樹》か?」
タイミング良く紡がれた言葉は、奇しくもまるで一言のように繋がり、二人は互いに顔を見合わせる。
「アクセルも、そう思ったの?」
「ああ、って言うかターヤもか?」
相互に確認し合った結果、二人は同じ考えを持っている事を知る。そして、同時にまるで本能に導かれたかのようにして眼前に聳え立つ大樹を見上げたのだった。
そんな使途二人へとアシュレイの指摘が飛ぶ。
「今の声の主が《世界樹》って、そもそも樹が喋る訳?」
「実際のところどうなのかは解らないけど、全ての生命を育む大樹なら喋ってもおかしくはないんじゃないか?」
だが、返答は思わぬ方向から戻ってきた。レオンスだ。
案の定アシュレイが思いきり眉根を寄せて彼に視線を寄越した。その顔には、何であんたが口を挟んでくるのよ、と大きく書かれている。
『ターヤ』
その時、《世界樹》のものと思しき声が少女の名を呼んだ。
今までリチャードが使用してきたような『ケテル』や『世界樹の神子』という異名にも似た呼称ではなく、彼女自身の名を使われた為、ターヤはすぐには事態が呑み込めなかった。思わず利き手の人差し指で自身を指し、確認してしまう。
「えっと……わたし?」
『そうだ。主と話がしたい』
「ケテル、一度《世界樹》と二人で話をしてください」
その声に続けるように、リチャードもまた促してきた。
やはりこの声の主は《世界樹》だったのかと確信した反面、地面に寝かせたままのスラヴィの事が気になった。どうしても彼をあそこから動かす事が躊躇われたのだ。
「でも、スラヴィがあんな状態なのに――」
「ああ、《記憶回廊》についてはお気になさらず。彼を修理する方法は一応ありますから」
違う、そういう事じゃないの、と叫びそうになった。リチャードは全く解っていないとも口にしそうになって、元々の元凶が彼である事を思い出し、けれどもなぜか言葉にする事はできなかった。まるで彼にはどれだけ言おうが決して解ってもらえないのだと、脳が諦めてしまったかのように。
『ターヤ、スラヴィはそのまま寝かせておいても問題無い。彼の治療法については後で話そう』
思考が混乱に陥りかけていた少女へと《世界樹》が助け船を出す。
ありがたくその申し出を受け入れる事にしたターヤは、申し訳無さそうに皆を見た。
彼女の瞳を見たエマが頷く。
「私達は街まで戻ろう。スラヴィはそのまま寝かせておいても大丈夫だと言われたのだから、無理に動かさない方が得策だろう」
「だな。一旦聴いた事も頭の中で整理してぇし」
「そういう訳だから、俺達は一旦街に戻るよ。ごゆっくり、ターヤ」
次々と声をかけられて礼を述べる暇も無く、皆は踵を返して丘を下っていった。
後には意識を失ったままのスラヴィと、幾分か呆然とした表情になっているターヤだけが残される。無論気を使ってくれた皆には感謝しているのだが、声をかける暇すらない、そのあまりにもすばやい行動に彼女は困惑していたのだ。
(何か、置いていかれたような気分かも)
ほんのちょっぴりではあるけれど、何とも言えない寂しさを感じたターヤである。
『ターヤ』
名を呼ばれて、背後を振り返る。眼前に広がった大樹は、やはり壮大だった。
「世界樹、ユグドラシル」
『ユグドラシルで構わない』
思わず口の端から零れた呟きには応答する声が返ってきた。驚いて目を瞬かせつつも、それが許可であるとすぐに気付いて返事をする。
それを受け取った大樹は、一息分間を置いてから話し始めた。
『まずは、よくぞここまで辿り着いた。従来とは異なりさまざまな制限がかけられていた上に、記憶も無く異世界での旅となっては、実に大変だったのではないだろうか?』
「ううん。すぐにアクセルとエマと会えたし、いろんな人に助けてもらったから、そんなに大変だとは思わなかったよ」
首を横に振って、微笑む。言葉通り、ターヤ本人はそう思っていた。
『そうか。ならば良かった』
その言葉を聞いた大樹が微笑み返してくれたようにターヤには見えた。相手には顔も表情も無いというのに、まるで子どもの成長と一人立ちを喜ぶ親のような暖かみを持った笑みだとすら思えた。
もしかしてこの人なら、と突発的に直感した。本当はスラヴィをあんなふうにはしたくなかったのではないだろうか、と内心で弁護する自分が居る。もしかしてこの人なら、リチャードとは違う考え方をしているのではないだろうか、と。
「ユグドラシル、あなたは本当に……その、さっきリチャードが言ってたような事をスラヴィにしたの? それにスラヴィを指してた『アカシックレコード』って何なの?」
そうして気付けば、彼女は大樹へと問うていた。
訊かれた方の大樹はといえば、答えあぐねているかのように即刻は返答しなかった。
『リチャードの言葉通り、スラヴィは吾が生命から造りだした存在だ。無論、その理由も彼の者の言葉が全て故、否定はしない』
一瞬にして信じたい気持ちは霞み始め、この大樹もまたリチャードと似通った思考をしているのだろうか、とターヤは僅かに不安を覚えた。そうならば、自分はきっとこれから先は彼らを信じる事はできなくなるのだろうとすら思う。
『だが、吾は決してスラヴィを道具にしようとした訳ではないと、そこだけは弁解させてもらいたい』
だがしかし、その一言で《世界樹》は違うのだと、彼女は今度こそ確信した。相手は樹なので表情を読み取る事は不可能だが、言葉の端々からその想いや感情は感じ取れたのだ。
彼女の心情の変化には気付いていないようで、大樹は話を続ける。
『確かに先刻リチャードが話した目的など無かったといえば嘘になるが、吾はただスラヴィに贖罪と願いを託しただけだった。ただし幾ら吾と言えど、二度目の生を与える為にはその者を世界樹の民の一人とし、何かしらの役を与えなければならない。故に吾は彼の者を、全世界の『記憶』を司る存在――《記憶回廊》として生まれ変わらせたのだ』
一拍、間が生じた。
『だが、《記憶回廊》として再び生を受けたスラヴィは、生前の記憶を喪い、その役割に縛られるだけの存在となってしまっていた。故に吾は『最強の武器』を創らせるという名目で、スラヴィを外界へと行かせた。もしや一部でも記憶が戻るかもしれないという僅かな可能性にかけて。これ以上の詳細は個人事情故、話す事はできないが……』
大樹の説明は曖昧と言えば曖昧ながら、プライバシーに引っかからない程度には事細かだった。必要最低限の情報を解りやすく伝えてくれている。そして何よりも、言葉の端々から彼自身の感情が手に取れるのだ。
だからこそ、ターヤは首を横に振る。それで十分だと伝える為に。
「ううん、話してくれてありがとう、ユグドラシル。あなたは本当は優しい人なんだね」