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十五章 世界樹の街‐Tarja‐(10)

 率直な気持ちを伝えた時、大樹が大きくざわめいた気がした。動揺したかのように、驚いたかのように、全くの風が吹いていない空間の中で葉を揺らしている。
『その台詞を吾に向けて口にしたのは、主が二人目だな』
 やがて大樹はどこか感慨深げに呟いた。それは、遥か遠い過去へと馳せる遠い追憶。
 その時、ターヤには一瞬だけ《世界樹》が人間に見えた気がした。
(あ……そっか、この人は――)
 誰よりも人間らしい人なのかもしれないと、漠然とそう思った。実際のところ彼は決して『生命体』には成りえず『特殊な植物』という位置付けでしかないのだろうが、それでも思考においては、この世に存在する誰よりも『人』らしい存在かもしれないという可能性がターヤの中では浮上していた。
『ところで、スラヴィを治療する方法だが――』
 思考の中に沈んでいたターヤだったが、そこで《世界樹》の声によって我に返る。
 そんな彼女の様子に気付いたらしき大樹は、怪訝そうな態度でひとまず話を中断すると声をかけてきた。
『ターヤ、聞こえているか?』
「あ、うん! 大丈夫!」
 誤魔化すかのように何度も首を思いきり縦に振る。
 明らかに挙動不審なその様子から嘘だと見抜いた《世界樹》ではあったが、彼女の面子を保たせる為にも気付かない振りをする事にしたのだった。
『では続けよう。スラヴィの崩壊しかけている精神を治療する方法だが、これには直接彼の者の精神に入り込んでその心に働きかける方法が最適だ。しかしかの方法は特殊な環境を必要とする上、これは《神子》である主にしかできぬ業でもある』
「わたしにしか……?」
 ずしりと重く圧しかかってきた言葉は、自ら反芻する事で更なる重量感を増した。思わず胸のまで両手が重ねられて握り締められる。
 彼女の動作と様子から不安の感情を察知した大樹だが、それでも口にする他は無かった。
『そうだ。こちらが撒いた種を拾わせるようですまないとは思うのだが、今は主にしか頼めない。不甲斐ない事だが既に聴いての通り、吾は不調故に最低限の仕事を行うだけで精一杯の状態なのだ。ターヤよ、頼む、スラヴィを救ってはくれまいか?』
 顔があったのならば気まずそうな表情をしていたであろうユグドラシルへと、ターヤは首を横に振る。彼の心情は痛い程に伝わっていたのだから、彼女に断る理由は無かった。
「ううん、スラヴィを助けたいのはわたし達も同じだから。任せて、ユグドラシル」
 再び、大樹の葉が大きく揺れる。
 それはまるで子どもを救ってもらえる喜びを顕にして礼を述べている親のようだと、ターヤは直感的に連想したのだった。


「おねーちゃん、何話してるんだろ?」
 ところで、大樹の下にターヤとスラヴィを残して丘の麓まで降りた一行はといえば、何をするでもなくそこで待機していた。リチャード曰く、話が終われば《世界樹》が自分を通じて教えてくれるとの事だったからだ。
 その彼は、一行からは離れた位置に居た。どうにも彼は好きになれないと感じた一行が距離を置き、彼自身もまた一行と慣れ合う気は微塵も無かったからである。
「さあ? あの子はセフィラの使途だって以前にあたし達とは住む世界が違うんだから、いろいろとあるんじゃないの?」
 ちなみにマンスの疑問には、アシュレイが肩を竦めてみせた。彼女らしい皮肉気な言い方ではあるが、その対象が最近は心を開いていた相手であるだけに珍しいと言えば珍しい。
 これにはレオンスが苦笑を浮かべた。
「おいおいアシュレイ、そんな言い方は――」
「へ~ぇ、おまえ、ターヤが一気に遠くなった気がして寂しくなったんだろ?」
 だが、途中で遮るようにしてアクセルが言葉を挟んでいた。その表情は誰かをからかう時特有の意地の悪いものへと化している。

 彼の物言いには皆が、まさか、何を言っているのか、と言わんばかりの顔をした。あのアシュレイに限ってそれは無いとエマでさえもが感じたからだ。
 無論、本人も同様の考えを持っているようで、両腕を組んで鼻を鳴らす。
「憶測で訳の解らない事を言わないでくれる? エマ様にならともかくとして、どうしてあたしが彼女に対してそんな感情を抱かなきゃならないのよ?」
「なら、おまえは別にターヤが今すぐ元の世界に帰っても良いんだな」
「! べっ、別にそこまでは――」
 試すような言葉をアクセルが発した途端、アシュレイが顔色を一変させた。しかしすぐにその事に気付き、慌てて口を噤んで顔を俯け気味にして顔付きを元に戻そうとする。
 彼女の正直な心情を目にしたアクセルは、確信の意と共に笑みを見せた。
「ほらな、それがおまえの素直な気持ちだ。だいたい俺も《セフィラの使途》らしいけどよ、おまえ、例えば俺が同じ状況だったとしても別にターヤと同じようには感じないだろ?」
「ええ、そうね」
 少しも躊躇う事無く即座に同意したアシュレイに若干落ち込みつつも、ただちに持ち直したアクセルは話を継続させる。
「まぁ、そういう事だ。おまえは自分で思ってる以上にターヤに心を開いてるんだよ」
「あたしが、彼女に……」
 自分自身ですら知らなかった感情を確かめようとするかのように、アシュレイは胸元に利き手を添える。それは、そうすれば自らの心が解るのかもしれないという無意識下における行動だった。
 一方で、アクセルを除いた男性陣は個々に驚きを覚えていた。
「しかし、地図の時もそうだったけど、アクセルの方がアシュレイのことを解っているみたいだな、エマニュエル?」
「そうだな、確かにその通りだ」
「元気出して、エマのおにーちゃん! あんなの偶然だよ! だって赤だもん!」
 レオンスはどこか揶揄の色をも含めてエマに視線を寄こし、エマはその言葉を受けて意気消沈したように両肩を落とし、そしてマンスはそんなエマを彼なりに慰めようとする。
 だがしかし、少年の発言にだけはアクセルが過敏に反応した。
「おいしっかりと聞こえてるぞクソガキ。てめぇ――」
「やはり、今代のケテルも駄目でしたか。結局、私の全てを理解して受け入れてくれるのは『彼女』以外には居ないという事なのですね」
 唐突に、リチャードが溜め息交じりな独り言を落とした。
 それにより一行の意識は、再び彼へと集中する事となる。
「ああ、もう一度彼女にお逢いしたい」
 しかしリチャードは気付いていないどころか、陶酔した表情を浮かべ始めている。その面相は、彼以外の人物からしてみれば背筋を駆け抜ける悪寒に満ち溢れた、狂気的で独占的な恍惚の笑みだった。
 勿論、一行もまた例外無く彼に対して不快感を覚えたのだった。
 先程の慈悲の欠片も無い無情な言動といい、全くと言って良い程人間味の感じられない振る舞いといい、現在進行形の狂気を孕んだ様子といい、この『リチャード』という青年は何かがおかしい。
 誰一人として声には出さずとも、皆の意見は内心でそう一致していた。
「やっぱり狂ってるわ」
 そして思わずアシュレイが零した呟きには、リチャードの首が瞬時のうちにそちらに向けられるという反応が返ってきた。
「『狂っている』? ええ、それがどうかしたと言うのですか?」
 反射的に身構えた彼女など知らず、ただその単語に反応しただけの青年は独白する。
「私は彼女と居られれば、それで良かった。例えあの二人が勝手に死亡しようとも世界が滅びようとも彼女と二人で居られるのならば、それだけで良かったのだ。彼女が私に対してだけ嫉妬してくれるのなら、両目を抉られる事も至福だった。彼女と二人でなら死ぬ事すら喜びのうちだった。だというのに、あの大樹は私だけを素体として選んだ。あまつさえ想い合っていた私と彼女を引き離したのだ……! このような傍若無人で非道な暴挙が許せるものか許せるものか許せるものか許せるものか許せるものか許せるものか許せるものか許せるものか許せるものか――」

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