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十五章 世界樹の街‐Tarja‐(11)

「グリゴリ」
 止まる事も止められる事も知らずに暴走する想いの反流を、しかし妨害する声があった。
 振り向いた皆が目にしたのは、たっぷりと水の入った桶を両腕いっぱいに抱え、畳まれた布を頭に乗せたヴァンサンの姿だった。まるでこれから銭湯に行こうとしている様子にすら見えかねない現状とは正反対の格好で少年は、邪魔された事を最高の侮辱とでも言わんばかりに表情を歪めた青年を、真正面から見据えている。
「忘れるな、僕達は、もう世界樹の民だ」
 そのたった一言で、リチャードから急速に感情が遠のいていく。
「大変お見苦しいところを失礼しました、皆様」
 遂には、普段通りの貼り付けたような笑みへと回帰し、謝罪するかのように一礼したのだった。そこには最早、一欠片として彼の素など残ってはいなかった。
 彼の変わりように先程からついて行けていない一行は、ただ唖然とするしかない。
「そう言うんだったら、あたしの疑問に答えてもらえる?」
 しかし流石はアシュレイと言うべきか、彼女は素早くその状況を利用するべく口を開いていた。
 リチャードもまた前言撤回をするような真似はしない。
「はい、私に答えられる範囲でどうぞ」
「どうして『ケテル』だけが異邦人から選ばれるのか。勿論、理由があっての決まりなんでしょう?」
 この質問に反応を見せたのは、リチャードではなく一行の方だった。それは、皆も彼女同様その話を聞いた時から少なからず感じていた疑問だったからである。
「それでしたら、やはり彼女……いえ、彼女達が『特別』だからとしか言えません」
 しかし戻ってきたのは、答えになっていない返答。
「ところで皆様は、どうして《世界樹の神子》が『特別』なのか、その理由が解りますか?」
 けれどもそこに誰かが抗議するよりも速く、リチャードが逆に一行に対して問いを投げかけていた。それは決して答えを相手に委ねている訳ではなく、あくまで会話の一環としての問いのようだった。
 唐突に質問を質問で返されて困惑する一行だったが、一応考えてはみる。
 ところが、そこはリチャードだった。自ら問いかけておきながら、答える時間どころか考える時間すらもまともに与えず解答へと移っていたのだから。
「その答えは、彼女の血筋に由来します」
「おいてめぇ最初から答え――」
「ここについてはあまり詳しく話さないよう《世界樹》から言われていますので、曖昧な表現しかできません」
「――させる気ねぇんだな」
 アクセルの文句も追及の目も完全にスルーして、リチャードはマイペースに話を進める。語り聞かせるように歌うように言葉を紡いでいく様は、まるで語り部か詩人のようだ。
「ですが、一つだけ確かな事は、彼女が動けば世界が廻る――《神子》を軸に全ての事柄が左右されるという事です。自身を中心に世界を廻す、それはまさに――」
「まるで円の軸だな」
 引き継ぐ形となったレオンスの呟きに、青年は大きく頷いたのだった。
「はい、その通りです。彼女はまさしく運命に選ばれた唯一無二の存在であり、少しのきっかけで世界を左右しかねない存在なのです」
 瞬間、その場の空気が一瞬だけ凍り付いたように誰もが感じていた。反応の大きさは個々なれど、これには全員が全員、驚愕せずにはいられなかったのである。
 ターヤが、と言うよりも《世界樹の神子》が、世界の現担い手たる《世界樹》に連なる〈生命の樹〉から恩恵を受けたセフィラの使途の中でも特別だという事は先刻の説明で何となく理解できたが、まさかそこまでの存在だとは誰一人として思いもしなかったからだ。
「具体的に申し上げれば、《世界樹》の実質的な代理である事が大きいのかと。勿論、それ以外の要因もあるのでしょうが」
 皆の表情から判断したのか、リチャードから先よりは詳細な理由が付け加えられる。
 それでも尚沈黙に支配されたままの一行の空気を打破するかのように、レオンスが両肩を竦めてみせた。
「軽い冗談のつもりだったんだけどな」

「ですが、残念ながら冗談ではありません。現に《世界樹の神子》という存在を利用しようとする勢力は存在し、暗躍しているようですから」
 途端、まるでこの場にその勢力が存在するかのように一行が警戒態勢へと移行する。
「それって――」
「アシュレイ」
 思い当たる節があるらしきアシュレイが口を開きかけたところ、エマに制された。彼の視線の先を追えば、大樹が鎮座する丘から白い少女が降りてくる様子が見える。どうやら《世界樹》との話は終わったようだ。
「ターヤには黙ってた方が良いんじゃないか?」
「だな」
 レオンスの言葉にはアクセルが同意する。
 その力を利用しようと狙っている勢力が居るなどと、誰も今のターヤに言おうとは思っていなかった。何せ自分自身の真実を一気に知らされたばかりなのだ。表面上には左程変化が無くとも、内心では少なからず混乱している事だろう。そこに無用な心配をかけさせては、今のスラヴィのようになってしまうかもしれない、という恐れもあったからである。
 かくして出迎えられたターヤは、皆の様子がどこかおかしい事を何となく感じ取っていたようだったが、誤魔化されて話を振られているうちにすっかりと頭から抜け落ちたらしく、ひとまずは安堵した一行であった。
 また、彼女からはスラヴィが世界樹の民が一人《記憶回廊》という存在である事、彼を治療する方法を《世界樹》から教わった事が告げられた。
「! あいつを治す方法が解ったのか!?」
「うん。それでね、アクセル、頼みたい事があるんだけど良い? スラヴィを負ぶって、セアドのところまで連れて行ってほしいの」
 彼女の言葉にはマンスが両目を期待で輝かせるも、対してアクセルはといえば複雑そうな表情になるのだった。
 そこでターヤは未だ失言であった事を知る。
「あ……ごめん。この前カレルとテレルはああ言ってたから、もう大丈夫かなって……」
 言葉が紡がれるにつれ、徐々に声は萎んでいく。内心は申し訳無さと後悔と自責の念とで埋まり始めていた。
 アクセルはしばらく発言する直前で留まっていたが、意を決したように口を開く。
「いや、俺も気まずいからって顔を背け続けてるのも良くないしな。双子龍はああ言ってくれたけどよ、セアドはどうだが解らねぇし、良い機会だと思って腹を括ってみるわ」
「そうだよ! テレルとカレルに会いに行こう!」
「おまえな……俺の話を聞いてなかっただろ」
 友人達に会えるという事実に目の眩んでいるマンスには、アクセルの呆れ声すら届いていないようだ。その嬉しさを表情や動作で表現するなど、すっかりと自分の世界に入り込んでしまっている。
 そんな少年の様子を皆は微笑ましそうに眺め、最終的にはアクセルも仕方が無いとばかりに笑みを浮かべたのだった。
「そんじゃ、ちょっくらスラヴィを回収しに行ってくるか」
「あ、わたしも行くよ」
 丘へと向かうアクセルにターヤもついていく。
 その背中を眺めるエマは、ターヤが隠し事をしている事に気付いていた。今し方してきた会話の内容を皆に伝えている時、何度か不自然な間が開いていたのだ。おそらく、マンス以外は薄々察している事だろう。どうやら彼女は《世界樹》とスラヴィに関する以外の話もしてきたようだったが、そこについては何も言おうとはしなかったので、彼らもまた触れようとは思わなかった。
(十中八九、ターヤ自身に関する事なのだろうな)
 しばらくすると、二人は皆の居る場所まで戻ってきた。アクセルはスラヴィを背負って、ターヤはその左肩に一匹の栗鼠を乗せて。
 皆の視線が、その栗鼠に集うのは自然な事だった。何せ今までは居なかった存在が唐突に現れれば、目を惹かれてしまうのは当然の反応だ。加えて、その栗鼠は全身が紫だったのである。これは気付かない方が無理だというものだ。

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