The Quest of Means∞
‐サークルの世界‐
十二章 盗賊達の杯‐clue‐(13)
その行為自体には和みつつも、どうやら熱は無い事が解り、益々エマは現在の状況が飲み込めなくなる。
そこで、ふと横に転がっているコップが目に付いた。彼女の方を優先した為、コップまでは受け止めきれなかったのだ。幸い中身は入っていなかったようで、床を汚さずに済んだのだが。
(だが、いつまでも放置しておく訳にはいかないな)
膝枕にした事で片手は空いていたので、そちらの手でコップを掴む。そこで一つの可能性を思い付いて縁を鼻に近付けてみれば、やはりと言うか仄かな酒気が漂ってきた。
途端に全身を脱力感と言葉にできない疲労感が襲う。
(つまり、酔ったのか)
結論。どうやらターヤは、コップの中の酒をジュースだと思って飲んでしまったらしい。メイジェルから予防線としてジュースを渡されたと思っていたのだが、彼女が酒と間違えてしまったようだ。
(それも仕方の無い事か)
視線を動かせば、慌ただしく幾つものコップを運ぶメイジェルの姿が目に入った。彼女は酒宴の開催が宣言された時から給仕を担当しており、様々な場所から声をかけられていた。そのような慌ただしい状況下での過程で、ターヤに誤って酒を与えてしまったのだろう。
しかし頼まれた訳でもないだろうに率先して給仕を務める彼女の様子は、まさに一生懸命だった。常に全力で生きている、その表現がよく似合うと言っていい。
(私には、眩しいな)
目が眩みそうだ、と一人ごちたところで、右手を掴んでいた力が弱まった。見下ろせば、幸せそうな顔をしたターヤが眠っている。その唇が、微かに動いた。
ほんの少しの間だけ驚いて、すぐに表情が緩む。先程同様の微笑みを浮かべて、彼もまた彼女へと言葉を向けた。
そんな二人を眺めながら、ちびちびとジュースを啜っていたマンスは、むぅ、と隠しもしない不満顔である。自分に気付かず二人の世界に居る――と彼は認識している――のがターヤとエマなので突撃はしないものの、もしも片方がアクセルだったならば攻撃を仕かけていたであろうくらいには、今の彼は不機嫌だった。
(おねーちゃんもおにーちゃんも、ぼくのこと忘れてるでしょ)
「隣、良いかしら?」
更に頬を膨らませていたところにかけられた声。見上げれば、自分と同い年くらいの少女がこちらを見下ろしていた。確か、名前は『ファニー』といったか。
「どうぞ」
特に断る理由も無かったので承諾すれば、彼女はマンスの隣に腰を下ろしてきた。
同年代の女性と関わった事の無かったマンスは無意識のうちに緊張を覚えるが、少女の方はといえば気にしたふうも無くコップの中の液体を静かに飲んでいるだけだ。彼の隣に座ってきたのは彼女の方なのだが、会話を始める様子も無い。
そうなればマンスの緊張は一瞬にして吹き飛び、再び不機嫌が訪れた。
(何なのさ)
むぅ、と頬を膨らませながら、彼女同様にコップの中のジュースを飲み出す。ちびちび、ちびちび、一気には飲まずに少量ずつ。その合間にも何度か隣の様子を窺ってみたが、彼女は彼同様にコップに口を付けたままだった。単に座る場所を探していただけのようだ。
(本当に何なのさ)
「ねぇ、一つ、訊いても良いかしら」
だから彼女の方から声をかけられた時、マンスは驚いた拍子に思わず、残っていたジュースを全て一気に飲んでしまった。そして、むせて咳き込んだ。コップは握り締めたままだった。
「大丈夫?」
咄嗟に背中を擦ってもらえたのですぐに楽になり、それを伝えるべく身体を起こすと手は離れていった。
「それで、訊きたい事って何さ?」
若干棘のある声になってしまったが、相手は何も言ってこなかった。
「あんた達と一緒に居る、あの赤い男の事よ」
そう言われて思い付く人物は一人しか居ない。
「赤のこと?」
「あの男、そういう名前なの? 確かレオンには『アクセル』って呼ばれてたと思うけど」
「うん、本名はアクセル・トリフォノフだよ。でもあいつは意地悪だから、ぼくは『赤』って呼んでる」
別に毎度毎度からかわれている訳ではないのだが、第一印象が悪すぎたせいなのか、未だにマンスはアクセルのことは嫌いという程でもないが、そこまで好きになれないでいた。今のところ特に問題も無いし、人間一人くらいは好感を持てない相手が居ても良いと思う。
「ならアクセルは、あんたから見てどういう人なの?」
「さっきも言ったけど、すっごく意地悪。ぼくとか、おねーちゃんおにーちゃんをよくからかうし、自分勝手で自己中だし、えっと……ちょとつもーしん? だし」
「なら、アクセルは『規律』に煩い?」
やけに喰い付いてくる彼女を不思議に思いつつ、訊かれたからには答えるマンスだった。
「まっさか。あの赤だよ? 見た目通り、そういう事は気にしないで破る奴だよ、絶対!」
「そう」
安堵したように頷くと、ファニーはまたアクセルへと視線を戻した。その目はどこか懐かしそうな、けれど苦々しげな色を秘めている。良かった、あいつと同じじゃなかった。マンスの耳にはそんな呟きが届いた。
次に彼女の視線が向かった先には、アシュレイが居た。瞬間的にその眉根が寄せられるが、アシュレイという軍人に反応しているよりは、相手が身に纏っている軍服を睨み付けているようだった。
「誰と赤を重ねてるのか知らないけど、赤はその人よりも、きっとすっごくズボラだよ」
思ったままに言葉をかければ、彼女は驚いたようにこちらを振り向く。
「それもそうね」
そして先程の自分が馬鹿馬鹿しかったとでも言いたげに苦笑し、残っていたコップの中身を全て飲み干した。
マンスも握り締めたままだったコップを床に置いて、そういえば、と思う。
「ぼくはマンスール・カスタっていうんだ」
そう言って空いている方の手を差し出すと、彼女は再び驚き顔になる。流石に脈絡が無さすぎたかと反省しつつ、付け加える。
「マンスって呼んでいいよ、ファニー」
そうしてから、初対面でこれは馴れ馴れしかったかと内心で冷や汗をかいたものの、彼女は意図を看破したらしく笑って、その手を握り締めた。
「そうね、宜しく頼むわ、マンス」
一方その頃、本人の与り知らぬところで話題となっていたアクセルはと言えば、酔ったアシュレイに散々愚痴を聴かされていた。
「――それでね、ニールったら酷いのよ! いっつもあたしに無理難題を押し付けてくるし、そのくせ自分は何もしないでソファに寝っ転がってるし!」
アシュレイは酔っ払っても呂律が回らなくなる事はなかったが、それはアクセルにとっては困りものだった。何せ、彼女は怒り上戸なのである。以前、何も知らずに酒を飲ませた時、最初の内はとろんとした顔をしていたので良かったものの、途中から仕事の――主に上司に対する愚痴を聴かされる羽目になっていたのだ。
「我儘だし! ちゃらんぽらんだし! あんであんな奴が〔軍〕の《元帥》やってられんのか解らない! 癪だけど、まだカルヴァンの奴の方が似合ってるわよ!」
はて、とアクセルは首を傾げる。最初に酔っ払っていたのは自分の方だった筈なのだが、気が付けば酔いは殆ど醒めており、代わりに傍の少女の方が顔を真っ赤にしていたのだ。これはどういう事なのだろうか。