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十章 首都圏騒動‐infiltration‐(4)

 その瞳に、最早迷いの色は無かった。


「……あー、死ぬかと思った」
 全ての死霊を撃破した直後、足の力が抜けたらしく倒れ込むようにして腰を下ろしたアシュレイは掠れた声で呟く。何とかできたから良いものの、実際は今にも方向を転換しそうな程心臓の鼓動は速かったのだ。
 それでも、できた。あれ程の数の死霊相手に、自分は何とか立ち向かう事ができたのだ、と実感する。
「何だ、やればできるじゃない」
 あはは、と乾いた声で笑う。どうしてか可笑しかった。
「だな」
 思わぬ肯定の声に首を持ち上げれば、そこには立ちながらこちらを見下ろしている青年が居た。良かったじゃねぇか、とその顔が言外に語っている。
 途端に何だかむず痒くなってきて、答えは返さなかった。
「何も反応が無ぇってのはつまんねぇんだけど」
「知らないわよ」
 言葉通りつまらなさそうな文句は即座に切り捨てると、彼女は立ち上がろうとする。
「……っ」
 のだが、なぜか立ち上がれない。どうやら腰が抜けてしまっているらしく、全くと言って良い程足に力が入らないのだ。唯一良かったのは、その事実と内心の焦りがいっさい表には表れなかった事だけだろう。
(やっぱり、アンデッドなんて簡単に克服できる訳が無いんだわ)
 喜ぶだけ損だったとばかりに溜め息を付いて、彼女は回復を待つ事にした。
「立ち上がんねぇのかよ?」
 そのつもりだったのだが、今度は某似非ナルシストの邪魔が入る。この男が居た事をすっかりと忘れていた。
 見上げてくるだけで何も言わないアシュレイをアクセルはしばらく眺めていたが、ふと面白いとでも言わんばかりの顔になる。膝を曲げて屈み込むと、彼女と目の高さを合わせた。
「何よ」
 邪魔だ消えろと言わんばかりに突き刺さってくる視線など気にもせず、彼はまた無言で彼女を見つめている。
 これには、アシュレイの方が次第に頬を羞恥の赤に染めるしかなかった。とにかく腰が抜けたなどとは死んでも言えないので、早急にこの男が立ち去ってくれることを望む。
「別に、そこに居なくても良いでしょ」
 けれども彼はその言葉には答えず、少しばかり間を置いてから言った。
「立てねぇんだろ?」
「何の事?」
 ぎくりと肩が強張るが、彼女は持ち前の精神力で封じ込めた。
 だが、間近に居たアクセルは見抜いていた。はぁ、と彼は大きく溜め息を付く。どうしてこいつはこんなにも意地っ張りなんだかな、とは思うだけに止めておいたが。
「今更隠すなよ。見りゃ解るっつーの」
 最早目も合わせられそうになかった。あぁ恥ずかしい、と生じてきた羞恥は表には出さない。
「無理すんな。ほら、手ぇ貸せ。おぶってやるからよ」
 差し出された手も見れない。
「結構よ……って――ちょっ……あんた、ねぇっ!」
「ん? 何だよ?」
 思わず上がった甲高い抗議の声には、実に涼やかで普段通りの声が返ってきた。その態度が益々彼女の怒りメーターを上昇させているのだが、その事に当の本人は気付かない。

「――!」
 終いに彼女は握り締めていた拳を震わせ始めた。
 なぜなら、アシュレイの即座の断りにも関わらず、アクセルは返事を待たずに彼女を抱き上げていたのだ。彼はどうも元からこうするつもりだったらしく、最初から自分に拒否権は無かったという事か。
 思考を巡らしている内に、驚きに怒りが打ち勝った。
「あんたねぇ! いきなり何すんのよ! 下ろしなさい!」
「歩けない奴が偉そうに言ってんじゃねぇよ」
 しかし、そう言われてしまってはアシュレイに返す言葉も無い。しかも自分は羞恥で顔を真っ赤にしているというのに、事の張本人である彼は何事も無いように涼しい表情をしているのだ。
(ずるい)
 プライドが疼いた。次いで吐息が口の端から落ちる。
「あんたって、本当にあたしのことが嫌いよね」
「……はぁ?」
 脈絡の無いアシュレイの言動に、アクセルは呆気にとられたように眉を顰めた。
 訝しげな視線を向けてくる彼には構わず、彼女は自身の中に生じた流れに身を任せていく。
「だってそうでしょ? あんたはあたしをからかってくるわ意に反する事をするわ、あたしのことが嫌いな証拠に他ならないじゃない」
 これは前々から思っていた事だ。眼前の青年は事ある毎に少女をからかい、彼女の望まない事をしてくる。今もまた同様に、大丈夫だと言っているのにそれを受け入れてくれない。
 けれども予想外な事に、彼は真剣みを帯びた表情となっただけだった。
「本当に、そう思ってんのかよ?」
 不覚にも、胸の高鳴る自分がどこかに居た。それは絶対に不意打ちだったからだ、と彼女は決め付けて押し殺して反撃を試みる。
「何が言いたいのよ、あんたは。とにかく、即急に下ろしなさい」
 これ以上羞恥が肥大する前にこの体勢を止めろと催促するが、青年は黙ったまま動こうとはしなかった。
 訊いてるの? と問おうとして、そこで青年の表情が見慣れた意地の悪いものに変化している事に気付く。嫌な予感が全身を駆け巡った直後、相手の顔が視界いっぱいに広がった。
「あまりうるせぇと、口を塞ぐぜ?」
 冗談にしては近すぎる顔に、思考が停止した。
「――なっ!?」
 それから予想外且つ奇想天外な言葉に一瞬で頭が基準沸騰値を凌駕したアシュレイは、顔を真っ赤にして「ぎゃー!」と叫んだ途端に全力で暴れ出す。ともかく彼から離れたくて逃げ出したくて、最早我武者羅だった。
「エマ様ー! な、何か……この男が変ですー!」
「ちょっ……おい! ちょっと待てぇっ!」
 腕の中で無我夢中に暴れられては抱えている方のアクセルも大変で、何とか彼女を抑え込もうと奮闘する。
 そうすると、アシュレイもまた相手の抑制から逃れようと更に両手足を振り回す為、結局は堂々巡りになっているのだった。
 しかも傍から見れば、その光景は恋人の痴話喧嘩に見えない事も無い為、傍観していたエマは助け船を出さずに苦笑しているだけだ。
「『わー、ちーわーげーんーかー』――とある少年の言葉」
 そして空気を読まないスラヴィの放った一言で、ぴたりと二人は動きを止める。互いに顔を見合した後、即座に彼らは視線を反らした。もうアシュレイも抵抗する事は無かったので、アクセルは彼女をその場にそっと下ろす。
 スラヴィの手腕には皆が内心で感嘆と拍手を送る。
「アシュラのおねーちゃんと赤いのって、仲が良いの? それとも悪いの?」
「どうなんだろ」
 不思議そうな表情をしたマンスに尋ねられるが、生憎とターヤにもよく解らなかった。

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